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2005年3月25日 (金)

「マーキュリー通信」no.84【その時人生が動いた】

今から丁度40年前の昭和40年(1965年)3月25日は、私にとって人生の大きな転機の日でした。その日は調布中学の卒業式の日で、当日私は心に誓ったことがあります。

 高校受験は、三多摩で当時最難関の都立立川高校を受験しましたが、1点差で不合格でした。その知らせを聞いて、国語のF先生が私の所にやってきました。「君は立川高校に絶対受かると思って、3年2学期の通信簿を5のところを敢えて4にして、その分を他の生徒に回した。しかし、君が不合格の通知を聞いて誠に申し訳なかった」と釈明し、涙を流しなら土下座して私に謝罪しました。

 3年2学期の国語の成績は、中間、期末テストで連続して96点を取ったので、当然通信簿は5だと思っていたのが、4だったため、私はF先生に抗議しにいきました。しかし、F先生はへりくつをこねて私の抗議を拒絶しました。私にとっては、産まれて初めて国語の通信簿4でショックでした。
 立川高校を不合格となった私は、当時学校群制度が出来る前だったので、同じ学区内の都立神代高校に入学しました。その手続きの日は、国語の3学期期末試験の日でしたが、F先生の了解を取って、試験は受けませんでした。しかし、3学期の国語の通信簿は4から5に戻っていました。

 その年、立川高校合格者は、調布中学から15名中3分の1の5名でした。3月25日卒業式の日、負けず嫌いの私は、「立川高校に行った連中には、大学入試では絶対負けないぞ」と心に誓いました。同時に、高校受験では、余り受験勉強をしなかった自分を恥じ、大学受験では徹底的に勉強することを決意しました。

 志望校は、当初東大建築学科でしたが、高校2年の時に、資源小国で、貿易立国の日本では、世界を股にかけるビジネスマンとして活躍したいと思いました。そこで総合商社で働きたい。その為には一橋大学商学部がベストとわかり、一橋大学に進路変更しました。

 高校1年生では、高校受験のストレスから解放する為に、1年間クラブ活動(陸上競技部)も一生懸命やりました。
 そして、2年生から大学受験勉強に集中しました。当時の我が家は貧乏で、浪人する経済的ゆとりがなかったので、現役で絶対合格するぞと背水の陣で臨みました。そして、神代高校では、史上初めて現役(私が最初で最後のようです)で一橋大学合格となりました。因みに、立川高校に合格した5名は、1名だけ一橋大学に受かり、後は落伍していきました。

 1965年3月25日は私がリベンジを誓った日で、この日が私にとって、人生が動いた日といえます。

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