「マーキュリー通信」no.141【青春時代に一番熱く燃えた日】
36年前の今日、干支にして丁度3周り前の8月2日は、私の青春時代で一番熱く燃えた日です。
朝日新聞が、新聞配達員不足を補うために、学生に「朝夕新聞を1年間配達して米国に行こう!毎月の給料17千円の内、15千円を積み立て、不足分を朝日新聞が補填する」という朝日洋上大学制度に全国の大学生376名(男子300名、女子76名)が参加したのが、今から36年前の1969年(昭和44年)。私が大学2年生の時でした。
往復30日を大阪商船三井の貨客船さくら丸で過ごしました。米国は、ハワイとロス、シスコに計6日間上陸。船上では著名講師陣による米国の経済、政治、文化、社会、歴史学の講義が行われた。私は、一橋大学の先輩で憧れの伊東光晴東京外語大学教授の米国経済ゼミを受講。英会話教室もあり、クラブは剣道部を選択。36日間の充実した学生生活でした。
70年安保の時代、学生運動盛んな頃だったので、船出の日(8月2日)、過激派学生から、「おまえらは体制派に与したのか!?」と批判され、火焔瓶を投げつけられる一幕も。当時は高度経済成長の歪みによる公害問題が出て、日本が社会主義に移行するかもしれない時期でした。当時、自民党支持の学生は国賊扱いされる時代風潮でした。
男子学生の宿泊場所は、船底の貨物置き場を利用した。鉄パイプで3階建てのベッドを組立て、そこに体操のマットを敷き、引っ越し用のねずみ色の毛布を敷いてできあがり。蚕棚のような宿泊所でプライバシーはゼロ。それでも僕らにとっては米国に行けるという夢で一杯でした。
当時20歳の私にとり、生まれて初めてみる米国は、とてつもなく大きく見え、日米のギャップを痛感しました。そして、「将来世界を股にかけるビジネスマンとして活躍したい」と思っていた私は、「貿易立国で生きる日本のビジネスマンとして活躍しよう!」という思いを強めました。当時1ドル360円の為替レートでしたが、これで米国の物価を円換算すると、「米国の物価は高い!」と強く感じました。物価の感覚でいくと、その半分位の感じでした。
当時、おみやげを買おうとすると、大半は""made in Japan""でした。当時の日本製品は、「安かろう、悪かろう」の時代。しかし、いずれこの為替のハンデを活かし、良い製品をどんどん作って、米国に輸出すれば、日本も米国に追いつくことが可能と感じました。さて、朝日洋上大学で一番の収穫は、400名近い同世代の仲間が一度に出来たことでした。「同じ釜の飯を食う」絆は大きい。この人的財産が一番大きかったです。そして、もう1つ。1年間朝夕新聞配達をやり抜いたこと。毎朝4時半に起きて、新聞配達をする。雨の日も、台風の日も、大雪の日も、休まず、遅刻もせずにやり抜いたことです。台風の日には、自転車ごと吹き飛ばされました。大雪の日は、1時間半で終わる配達が、6時間もかかりました。冬の早朝は暗く、道路工事の穴に落ちたこともありました。犬に突然かみつかれそうになったこともありました。
このときに、目標を決め、その目標に向かってやるべきことを地道に継続してやっていくことの大切さを経験しました。
1年後には、精神的に物凄く鍛えられ、そして、米国行きのご褒美は大きな感動となって返ってきました。n 今の若い人は、希望すれば何でも手に入る時代となりました。いまどき新聞配達したバイト代を貯め、船に乗って米国に行こうとする学生はいないでしょう。しかし、このような努力が、若いときの人間形成に物凄く役立つことを身をもって体験しました。
そして、私が人生で一番健康だった時期は、新聞配達の1年間でした。毎日規則正しく4時半に起床し、規則正しい毎日を送ること。食事は、朝食がどんぶり2杯、昼は2食分、夕食はどんぶり3杯という大食でしたが、体重53kgのスリムな身体で、筋肉質でした。もちろんこの年は風邪1つひかない健康体でした。
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