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2005年9月 6日 (火)

「マーキュリー通信」no.176 【私を育ててくれた元上司達-序】

 私は、一橋大学商学部卒業後、1972年三井物産に入社しました。25年間在籍しましたが、その間10の異なった職場を経験することができました。

 会計からスタートし、鉄鋼国内営業、石炭の輸入、海外研修員、カナダ・カルガリー駐在、大手鉄鋼メーカーとの企業間オンラインシステムのコーディネーター業務、新電電の新規営業、テレマーケティングの新会社?鰍烽オもしホットラインの創業及び営業担当役員として出向、情報通信事業部の新規事業責任者、そして、最後東京通信ネットワーク?鰍ナ電話の大口需要家向け営業と全部で10箇所の異なった職場でした。
 それぞれ全く違うカルチャーの職場でした。 三井物産では、社長のことも「さん付け」で呼ぶ習慣があります。国内営業に異動したときに、上司のことを「さん付け」で呼んだら、「ばか、態度がでかい。『課長』と役職で呼べ!」と叱られました。

 その後、石炭部に異動したら、上司のことを「Tom,Arthur,Peter」とかファーストネームで呼んでいたのにびっくり。カナダに駐在の頃は、カナダ人との文化の違いに驚きました。私の秘書に、夕方コピーを頼みました。「Mr.Sugaya 私はこれから夫とデートをする。夕方のこんな時間にコピーを頼むとは非常識!」とクレームが付きました。
 もしもしホットラインでは、物産からの出向組、テレマーケティング出身者、中途採用組、新卒、主婦・学生アルバイトと異文化の集合体。もしもしホットラインという新しい革袋の中に新たな文化を創っていくの苦労しました。
 3年毎に新しい職場に異動するので、最初はその職場になじむのに時間がかかりましたが、その内、各職場への同化がだんだんと早くなりました。
 一方、各職場には、上司、同僚、部下と沢山の人との出会いがありました。 これまで多数の上司に仕えてきましたが、現在の自分があるのもこれら上司のご指導のお陰と心より感謝しています。

 三井物産に入社した頃の自分は、ただ明るく元気なだけで、右も左も判らない青年でした。
 あれから33年半が経過し、これまで身につけてきた経験を基に、剣術でいえば、快刀乱麻の如く自分の経験を思う存分発揮することができる喜びを感じています。
 一方で、56歳の現在、世界最小の総合商社の経営者として、日々成長できている喜びも同時に感じています。私の異動に関しては、ほぼ100%自分の希望が叶い、実に恵まれた物産マン生活を送ることができたことを三井物産には本当に感謝しています。

 今後boblog「マーキュリー通信」では、物産マン時代の元上司に感謝の意を込めて、「私を育ててくれた元上司達」と題して、シリーズものとして書いていきたいと思います。 boblog「マーキュリー通信」の読者の皆様にも、人生の途上で出逢った多数の上司の存在があると思います。 これらの上司達との出会い、関係を一度整理してみると、感謝の念が沸いてきて、又自分自身を冷静に見直すことができるようになります。 もちろん、中には嫌な上司もいたでしょう。しかし、上司の長所も短所も全て自分自身が成長していくための肥やしと理解すると感謝の思いに変わってきます。

 先日、厚労省所管社団法人全国労働基準関係団体連合会から取材がありました。 テーマは、『社会人になってから今日までの「マイキャリア形成ストーリー」』に関し好きなことをしゃべってくださいということで、私の経験談をお話しさせて頂きました。「能力開発21」9月号(定価410円)に「自らの思いと行動で悔いは作らない」というテーマで4ページに亘り掲載されています。一度ご覧になっていただければ幸いです。

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