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2006年6月19日 (月)

「マーキュリー通信」no.404【日本人の精神的荒廃を考える-12「心の教育の必要性」

 「マーキュリー通信」にて「日本人の精神的荒廃を考える」をシリーズでお伝えし、結論的には「武士道の精神+仏教の教え」を日本人全体が見直しし、「心の復活」が重要と説いてきました。

 しかし、これには教育の部分が極めて重要です。いくら政府やマスコミ、識者が叫んでも、残念ながら現代の日本人にはそれを受け入れる土壌が乏しくなってきています。

 私が受けてきた教育を振り返った時に、やはりこの精神的な面、心の教育が欠落していました。 小学生(調布第一小学校)の時に、クラスに小児麻痺のK君がいました。背は高く、小児麻痺独特のひょろひょろとして、くにゃくにゃといった感じでした。又、普通の子供と同じようにしゃべることができませんでした。
 クラスの子供達は、K君の仕草を見て面白がりました。そして、ドッジボールで相手を何度も当てて良い「何歩当て」ではK君がいつも標的となりました。これを見て担任の先生は子供達を叱りませんでした。 又、学校には知能指数の遅れている児童だけを集めた特殊学級がありました。普通の子供達は同様に特殊学級の児童を好奇の目で見、バカにしました。この時も先生は特に叱りませんでした。 私は、知能指数の遅れている子供や肉体的ハンデを負っている子供を見ると、小学生の頃のK君を今でも思い出し、心が痛みます。「何故あの時先生は我々児童を叱ってくれなかったのか。何故、これらの生徒の痛みを理解するように指導してくれなかったのか。何故、労ってあげるように指導してくれなかったのか」と今でも思います。 「心の教育」といっても小学生には人間として必要なこの程度の基本的なことを教えれば良いと思います。相手の痛みが分かるようなそんな教育でよいと思います。

 中学(調布中学)に進学してからは、風紀、しつけの部分がかなり厳しかったです。「靴は上履き、下履き共にかかとを踏むな。男子生徒は坊ちゃん刈りにしろ」とか箸の上げ下ろしまで厳しく指導されました。ちょっと行き過ぎのところもありましたが、子供の頃はこのくらい厳しい方が却って良いかもしれません。但し、しつけは厳しかったのですが、「何故?」の部分がないのです。ただただ理屈抜きにルールに従えでした。そして、心の教育、精神的なことは教わりませんでした。

 高校(都立神代高校)では、倫理の授業がありましたが、表面的なことを学んだだけでした。哲学なら、ソクラテスやプラトンのもっと根元的なところを学びたかったのですが、無味乾燥で興味を持てませんでした。

 大学(一橋大学)では、「徹底的に考える」ということを学びませんでした。大学受験まで○×教育で来たわけですから、「徹底的に考える」力を付けたかったのですが、その部分が抜け落ちていたような気がします。

 私の受けてきた教育に関しては、まずまず合格点だと思います。70点くらいでしょうか。行き過ぎた偏差値教育に関する批判がありますが、団塊の世代の私たちは一番厳しい受験戦争を体験してきましたが、それほど大変に思いませんでした。寧ろ、若い頃、何でも暗記でき、何でも吸収できる年代に詰め込み教育をする訓練を積んできたお陰で、今日の基礎があるわけです。脳のトレーニングができたわけです。
 抜け落ちた部分としては、「心の教育」、そして大学時代の「徹底的に考える習慣」、この2つだけは現代の教育に付け加えて欲しいと思います。後は枝葉の部分、教育関係者の間で、じっくりと練って頂ければと思います。

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