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2006年7月17日 (月)

「マーキュリー通信」no.427【その時人生が動いた-4「家出した父と10年ぶりに再会」】

私は比較的裕福な菅谷家の長男として昭和24年5月26日に目黒区祐天寺に生まれました。 当時父は瀬戸物の卸を営んでいました。しかし、その後父は株でだまされ、財産を失いました。
 
 一家は、母の実家である調布に引っ越し、実家の土地に6畳一間の家を建ててもらい、そこに翌年生まれた妹と4人で暮らしていました。
 
 家業が倒産した父はすっかりやる気をなくし、仕事をしようとしませんでした。母は金策に走り、随分と苦労したようです。そして、過労がたたり、母は私が5歳の時に白血病で他界しました。
 
 母の死に父はショックを受け、翌年私が小学校1年生の時に幼い妹と2人を残して、突如いなくなってしまいました。
 幸い、母の実家には子供のいない伯父さん夫婦と祖母がいたので、妹と私の2人を祖母が母親代わりに育ててくれました。そして、10年の歳月が流れました。
 
 私が高校2年の夏、いなくなった父が突如現れました。その時の父の顔は、日焼けしていて多少アルコールが入ったせいか赤ら顔でした。身なりは、濃い緑色のシャツを着ていて、お世辞にも立派な出で立ちではありませんでした。父は肉体労働者として生計を立てていました。

 さて、父が帰ってきたので、父と一緒に住むかどうかが議論となりました。10年間我が子のように育ててくれた祖母は猛反対です。そこで父と一緒に住むかどうかを私に聞きました。私は、「血のつながった親子なのだから一緒に住むのが当然」と冷静に応えました。そのときの私は義務感で応えていました。そして、私の一言で父と妹と3人で一緒に住むことになりました。

 10年間私を捨てた父に対し私は憎悪の気持ちはわきませんでした。その代わり、「父を尊敬できない。父のような人間にはなりたくない」という気持ちが強かったです。父は私にとって反面教師でした。
 そして、そのとき私が決意したことがあります。「一生懸命勉強して、立身出世するぞ!」という気持ちが沸々とわいてきました。そしてこの時の体験が、現在でも私自身「人生一生涯勉強、死ぬまで勉強し、自己を高めていく」という気持ちが潜在意識下に強くインプットされ、勉強しないと父のようになってしまうという恐怖心があるのかもしれません。

 当時高校2年生(都立神代高校)だった私は、自分の将来は「世界を股にかけるビジネスマンになる」と決めていました。資源小国の日本が世界の中で生き残っていくには貿易立国しかない。そこで将来は商社マンとして生きていこうと思っていました。
 その為にはどうしたらよいのか。いろいろと調べているうちに一橋大学商学部がよいということが判り、受験は一橋大学商学部1本に絞りました。
 当時、家は貧乏でしたから、浪人する余裕などありませんでした。高校受験に失敗した私は背水の陣で臨み、父と一緒に暮らしてからは、好きなビートルズを聴くことも一切止め、受験勉強一本に集中しました。そして、現役で一橋大学商学部に合格することができました。

実家は、祖父の代から地元調布市で自転車業を営んでいました。伯父さん夫婦には子供いなかったので、もし私が父との同居を拒んでいたら、今頃は伯父さん夫婦の養子となり、自転車屋の跡取りとなっていたことでしょう。その自転車店も、商売繁盛し、東京都でもベスト10に入る自転車店に成長しました。

 今からちょうど40年前の今日7月17日は私にとって人生の一大転機となる日でした。

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