「マーキュリー通信」no.439【その時人生が動いた-5「さくら丸にていざ米国へ出帆」】
37年前の今日1969年8月2日は、私の人生が動いた日でした。
朝日新聞が、新聞配達員不足を補うために、学生に「朝夕新聞を1年間配達して米国に行こう!毎月の給料17千円の内、15千円を積み立て、不足分を朝日新聞が補填する」という朝日洋上大学制度に全国の大学生376名(男子300名、女子76名)が参加したのが、今から37年前の1969年(昭和44年)でした。私が大学2年生の時でした。
往復30日を大阪商船三井の貨客船さくら丸で過ごしました。米国は、ハワイとロス、シスコに計6日間上陸。船上では著名講師陣による米国の経済、政治、文化、社会、歴史学の講義が行われた。私は、一橋大学の先輩で憧れの伊東光晴東京外語大学教授の米国経済ゼミを受講。英会話教室もあり、クラブは剣道部を選択。36日間の充実した学生生活でした。
当時20歳の私にとり、生まれて初めてみる米国は、とてつもなく大きく見え、日米のギャップを痛感しました。そして、「将来世界を股にかけるビジネスマンとして活躍したい」と思っていた私は、「貿易立国で生きる日本のビジネスマンとして活躍しよう!」という思いを強めました。
当時1ドル360円の為替レートでしたが、これで米国の物価を円換算すると、「米国の物価は高い!」と強く感じました。物価の感覚でいくと、その半分位の感じでした。
当時、おみやげを買おうとすると、大半は"made in Japan"でした。当時の日本製品は、 「安かろう、悪かろう」の時代。しかし、いずれこの為替のハンデを活かし、良い製品をどんどん作って、米国に輸出すれば、日本も米国に追いつくことが可能と感じました。
20歳の多感な頃、見るモノ、聞くモノ、手に触れるモノ、五感で感じるモノ全てが新鮮に感じられ、貪欲なまでにストレートに吸収していった感じでした。
1969年8月2日は、20歳の原点、「将来商社マンになろう!」と密かに決意した日といえます。
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