「マーキュリー通信」no.525【その時人生が動いた-7「中学1年の時に日本通運でアルバイト開始」】
「chuu1.TIF」をダウンロード 私が調布中学1年生の時に、親戚の伯父さんが日本通運を定年退職して、宅配便(今でいうペリカン便)を始めました。伯父さんから誘われて、中1の暮れからバイトを始めました。1個配達すると25円でした。ミカン箱のような小さな荷物でも布団袋のようなかさばるモノまで全て一律25円でした。
当時の私は、身長150cm、体重45kg程度でがりがりでした。しかし荷物配達に慣れてくると、リンゴ箱3つとミカン箱1箱を自転車の荷台に積んで、配達できるようになりました。リンゴ箱1つ27kgですから、100kg近い荷物を自転車に積んで配達しました。米俵は1俵60kgでしたが、やせっぽちの体で米俵も担げるようになりました。布団袋はかさばるのでリヤカーを自転車に付けて運びました。当時はリヤカーが引けるほど交通量はそれほど激しくありませんでした。今思うと、中1の子供がよくリヤカーを引いたモノだと我ながら感心します。
日通の宅配便の仕事は暮れと3月の年度末は荷物の量が多く、3万円以上の収入となりました。当時の貨幣価値は現在の10倍程度ですから、中学生で月収30万円ということになります。稼いだお金の一部は小遣いに充て、後は貯金に回しました。
大学卒業までの10年間に、日通の仕事は、倉庫業、引っ越しの助手、炭俵を貨車から降ろす仕事等何でもやりました。炭俵の仕事は、目も鼻も耳も口も炭だらけになるので、皆敬遠するので、結構いいバイト代を頂きました。
幼い頃に両親を失った私は、必然的に独立精神旺盛な子供として育ちましたが、お陰で子供の頃から、自分の生活費は自分で稼ぐ習慣がつき、金銭面でも自立していました。
一方、宅配便の仕事は思わぬ副産物を産みました。私は体育が苦手で、中学2年生まで徒競走ではいつもびりでした。従って、運動会はいつも苦痛でした。
中学3年生の時に、50m走のタイムが2年生の時と比べ、9秒50から7秒60に急に良くなりました。私は何かの間違いと思い、再度計ってみたら、やはり同じ7秒60でした。そして、その年の春秋の運動会では信じられないことに徒競走で1着となりました。又、駅伝大会でも20人くらいをごぼう抜きにするという離れ業を演じました。
何故突然変異したのか?よくよく考えてみると、中1の時から荷物配達をした結果、足腰と肩の力が自然とついたわけです。毎日筋トレと有酸素運動をやっていたので足が速くなったわけです。
このお陰で、スポーツに対するコンプレックスがとれ、現在でも足腰は人一倍強い体になれたのも、中1の時からの荷物配達が貢献しています。因みに、日通の倉庫業のお陰で、今でも段ボール箱のガムテープ貼りはセミプロ並みの腕前です(^y^)
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