「マーキュリー通信」no.546【私を育ててくれた元上司達-12「三井物産元石炭部次長加藤晴生氏」】
boblog「マーキュリー通信」のシリーズモノの中で、「私を育ててくれた元上司達」が好きだという読者も結構います。人生の途上で様々な上司との関わり合いがあります。そして、現在の自分があるのも過去の上司の恩恵に預かっています。そのことは長い時間の経過の中で、気付かされることも多々あります。そして、その時、昔の上司に対する感謝の思いが湧いてきます。
読者の方から、その辺を自分の上司に置き換えたりしながら見ることができるからだと言われたことがあります。なるほどその通りですね。
さて、「私を育ててくれた元上司達」を発信するのは、昨年の7月以来半年ぶりとなります。その間、他のシリーズ物、様々な事件、出来事が発生し、「私を育ててくれた元上司達」を書く機会を失い、あっという間に半年が経ってしまいました。
今回は、私が国内の鉄鋼営業から、原料部門異動の希望が叶い、石炭部に異動した時の上司加藤晴生氏です。
石炭部に異動したのは、私が三井物産入社7年目の29歳、昭和53年6月でした。当時国内の石炭産業は斜陽産業でしたが、豪州、米国、カナダ等から石炭を輸入し、石炭部は鉄鋼部門の中でも安定した収益を確保していました。
国内の鉄鋼営業と異なり、石炭の営業は膨大な知識を必要とします。私は当時入社7年目で、物産マンとしては油が乗り始めた頃ですが、石炭部ではゼロからスタートです。当然石炭部の若手と比べ、知識の量の蓄積が雲泥の差です。
私自身深夜まで残り、仕事をしながら、貪欲に知識を吸収しました。しかし、他の若手部員と比べ知識不足は歴然としていて、私自身かなり劣等感にさいなまれました。
そんな中、かばってくれたのが当時直属の上司、加藤晴生氏でした。「菅谷はバイタリティがあり、国内営業で鍛えた営業力がある」とかばい続けてくれました。
そして、早くも翌年昭和54年9月には加藤さんの後押しもあり、初めてカナダに出張することができました。
そのお陰で、その翌年6月には北米研修員、そして同年12月末にはカナダ三井物産カルガリー出張所転勤と、石炭部の中では短期間で理想的な経験を積むことができました。
物産マン時代多数の上司に仕えましたが、加藤さんは何でも話せる兄貴分のような存在の方でした。物産マンとして海外で経験を積み、実力アップできたのも、加藤さんの支援の賜と今でも感謝しています。
加藤さんとはたくさんの思い出やエピソードがありますが、その中で私は大ちょんぼを犯しました。カナダのシッパーとの英文契約書を作成した時のことでした。私のミスで、一部間違いがあり、それが契約調印の直前に判り、加藤さんに赤恥をかかせたことです。加藤さんは、その時泣いて悔しがりました。その姿を見て、私は深く反省しました。
それ以降、契約書等重要なことになればなるほど、自分以外の人にチェックを入れさせ、ミスを無くすことを肝に銘じました。人のやることにミスはつきもの、契約書を何度もチェックしても、自分だけでやると思いこみ、思い過ごしでミスが発見できないことがよくあります。その時の失敗で、私は生きた教訓を得ました。その教訓は現在でも生きています。
10年程前、加藤さんが三井物産エアロスペースの常務として出向していた頃、同社のヘリコプターの絵が印刷されたタイタックを記念に頂きました。今でも加藤さんに感謝しつつそれを大事に使っています。本日もそのタイタックをネクタイに付けています。
加藤さんとは、現在でも親しくお付き合いをさせて頂いております。現在は、早稲田大学グリークラブの経験を活かし、ラトビア音楽協会の会長を務められていますが、その情熱は昔と変わらないようです。
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