「マーキュリー通信」no.594【その時人生が動いた-10 「三井物産入社内定」】
1971年3月16日は私が三井物産㈱に内定した日です。当時は高度成長の時代で、我々団塊の世代の大量就職の受け皿が企業側にありました。当時は新卒の青田買いを通り越し、もみ買いと言われた時代でした。
就職活動は、3年生の12月から始まり、金融機関、商社、メーカーの順で新卒の採用が行われていました。
私は、高校2年の時に、「日本は資源小国の為、貿易を通じ国の発展に貢献していきたい」と思い、就職先は総合商社を希望していました。
しかし、就職活動を決め打ちするのはいかがなモノと思い、就職活動になれることも含め、取り敢えず銀行回りを始めることにしました。
当時の一橋大学は、就職貴族といわれるほど、企業側の採用意欲が高く、銀行を訪問すると大学の先輩が出てきて昼飯をご馳走してくれて、その場で就職の内定が決まっていました。
ところが、三菱銀行の人事部長と面接の際に、「君のような性格は、銀行より商社かメーカーの企画、マーケティング部門の方が向いている」とアドバイスされました。
私はそこで目が覚めた思いで、内定が決まっていた銀行に内定取り消しの連絡をして、直ちに総合商社の就職活動を開始しました。
総合商社はどこにするか?
私は「組織の三菱」より「人の三井」といわれた三井物産を受けることにしました。
下位の総合商社は、人事部に面接に行くとその場で採用が内定しました。しかし、当時三菱商事と三井物産が一番人気でしたので、一橋大学から三井物産を受ける学生は4倍と高倍率でした。
三井物産の就職試験は、商社マンとして向くかどうかの性格テストがありました。そして、人事部面接の後、役員面接へと進みました。10名近い役員面接との面接でしたが、面接時間は僅か5分で終わりました。
面接時間が余りにも短かったので、帰り際に三井物産受験の理由をひと言言わせて欲しいと頼み、「貿易立国日本のお役に立ちたい」旨、役員の前でとうとうと語りました。
帰り際、三井物産の役員の方々で苦笑いをする人もいたのを今でも覚えています。
就職内定通知まで1週間ほどかかりました。当時、学生運動の盛んな頃だったので、私の身辺調査がありました。
そして、晴れて1971年3月16日に内定通知が届きました。
初志貫徹、「世界に股をかけるビジネスマンとして活躍したい」という思いが叶った日でした。
当時の三井物産の初任給は47千円と世間並の待遇でした。又、「商社マンは残業が多く、厳しいよ」という情報も耳にしました。しかし、「給与、待遇より仕事を選ぶ」という私の夢を優先させました。
一橋大学商学部合格、三井物産に就職内定という人生のレールが敷かれ、私の人生は大きく動いた瞬間でした。
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