「マーキュリー通信」no.600【VAVクラブで日本初フリーペーパーの会社を興した倉橋社長の講演を聴いて】
倉橋泰社長は荏原の技術者として83年、30歳の時に2年間渡米。その時、職場のエリートビジネスマンが、新聞購読をしていないのにびっくりした。大半のビジネスマンは、週2回新聞にクーポン券がつく水曜日と土曜日を楽しみにし、その日だけ新聞を購入する習慣があった。日本のビジネスマンには考えられないビジネスマンの行動に倉橋氏はカルチャーショックを受けた。
一方、当時米国では民放のニュース番組が花盛りだった。そこから倉橋氏は、「いずれ日本でもテレビのニュース番組が人気となる。その影響を受けて、新聞を見る必然性は薄れ、購読率は下がる。よって、チラシ効果も下がる。それに代わるフリーペーパー事業が今後伸びゆく産業だ。米国で流行ったものは日本でも流行る」と思い、日本でフリーペーパーの会社を設立しようと思った。
しかし、技術の荏原にしてみれば、フリーペーパー事業は相乗効果を期待することは全くなく、社内で猛反対にあった。
しかし、幸か不幸か当時は円高不況で荏原は余剰人員をたくさん抱え、倉橋氏は社長、副社長を説得し、何とか荏原が中心となり、取引先にも出資してもらい、87年10月1日フリーペーパーの新会社「㈱ぱど」を立ち上げることができた。
スタートして数年間「㈱ぱど」は赤字続きで、累積赤字が膨らんだ。その後経営陣が総入れ替えとなり、リストラが行われた。即ち、集中と選択の経営戦略の下、本業と関係のない「ぱど」の売却指示が下された。しかし、累積赤字に苦しむ「ぱど」を買おうとする企業は現れなかった。
そこで、倉橋氏は、本社に赤字補填をしてもらい、MBOで自らがサラリーマン社長からオーナー社長となった。
その後のメディアの興亡は倉橋社長が予想した通りとなった。
2000年から2006年にかけて総広告費は6兆1102億円から5兆9954億円と1.88%の微減となった。
これを、メディア別に見ると、新聞が1兆2474億円から約20%の大幅減の9986億円となったのに比べ、2000年には僅か590億円だったインターネット広告費が+515%の3630億円へと急上昇した。この傾向が続くと、いずれ広告費の王座は新聞からインターネットに代わられる日が早晩やってくる。
因みに折り込み広告費は、4546億円から4809億円と6%弱の増加となった。
事業戦略としては、フリーペーパーの最大手リクルートが、住宅情報、就職情報等ターゲット毎のフリーペーパーを発行しているのに対し、「ぱど」は潜在ニーズの掘り起こしを狙ったフリーペーパーを発行し、パドンナと呼ぶ主婦を活用し、戸別にポスティングしている。フリーペーパーの発行場所、ターゲットも含め、この分野でのリクルートとの競合を避けている。
さて、倉橋社長の経営戦略と事業戦略が成功し、㈱ぱどは総発行部数1260万部と日本最大のフリーペーパーの会社となり、ヘラクレスにも上場した。今期の売上は100億円強の売上となり、20年間で売上が200倍に急成長した。
倉橋社長の講演を聴き、大きな感動を覚えました。
実は、私も倉橋社長と同じ頃北米(私の場合はカナダ)に駐在し、倉橋社長と同じように北米で流行ったものは何れ時間差をおいて日本で流行ると思っていました。コンビニ、ビデオレンタル、FC等まさに私の予想した通りとなりました。
その中で、私はテレマーケティングの会社㈱もしもしホットラインを倉橋社長と同じ20年前の87年6月23日に設立しました。そして、当時テレマーケティングの会社設立に当たり三井物産社内で猛反対に遭いました。「物産がテレクラ事業に参入するのはけしからん」との叱責を頂戴したこともあります。
テレマーケティング事業は、商社では三井物産が先鞭を付けました。そして、私の予想通りテレマーケティングは大きく成長しました。
倉橋社長のフリーペーパー事業は、まさに私のテレマーケティング事業と時代も考えも同じ時代であり、私のベンチャースピリットの血が大いに騒ぎました。
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