「マーキュリー通信」no.644【その時人生が動いた-15 「三井物産㈱鉄鋼建材部に異動」】
三井物産㈱に入社して3年間は開発本部の開発会計課で営業会計を担当していました。入社して2年目から私は部内や担当営業部署の若手を公私ともにリーダーとして引っ張っていました。仕事も一通り覚え、営業からも頼りにされ、少し有頂天になっていました。
75年5月21日に、営業会計から鉄鋼建材部に異動しました。三井物産㈱入社内定時、私は営業に配属を希望していたので、やっとその念願が叶いました。
営業に異動してからは、これまで頭でっかちだった私は小僧同然一からの出直しでした。異動先では、業界を代表するトップセールスマン梁瀬課長と土井課長代理の下、商社の営業マンとして厳しく指導を受けました。
梁瀬課長からは、営業マンとしての基本から箸の上げ下ろしまで厳しく指導されました。土井さんは、口より手が先に出るタイプで、殆ど毎日土井さんから鉄拳が飛んでいました。というよりは、土井さん得意の頭突きか、靴のかかとで殴られていました。
現代の若者なら、こんな厳しい指導を受けたら多分3日と持たないかもしれません。 しかし、20代後半のこの時期、私自身一人前の商社マンに一日でも早くなろうと思っていたので、この厳しいしごきに耐えて耐え抜きました。この厳しさに耐え抜いたので、その後商社マンとしてかなり厳しい局面にも出会いましたが、その都度切り抜けてることができました。そして、厳しい2人の指導者、梁瀬さんと土井さんには今では感謝しています。その意味で、75年5月21日は、私にとり商社の営業マンの基礎を築くことになる初日といえます。
実は、私の場合、鉄鋼建材部に異動する1年前に開発事業部に異動が内定していました。開発事業部のT課長から気に入られ、銀座の高級クラブで接待を受け、「内に是非来てくれ」と頼まれました。当時、田中角栄首相の日本列島改造ブームで、開発事業部のT課長は飛ぶ鳥を落とす勢いの実力者でした。T課長からは高級タイピンとカフスセットをプレゼントされ、今でも大事に使っています。
しかし、ロッキード事件で田中角栄首相は退陣に追い込まれ、日本列島改造ブームは一気に終焉してしまいました。その影響で、三井物産も大打撃を受け、大量の不良土地を在庫に抱え、開発事業部は人員整理を余儀なくされ、私の内定も取り消されてしまいました。
ロッキード事件がなければ、私は三井物産の開発本部で土地デベロッパーの道に進んでいたことになるわけです。
私は三井物産に25年間在籍しましたが、私の人事異動は、世界や日本の大きな事件に影響を受けることが多々ありました。前回の「その時人生が動いた」では、中曽根内閣の時にNTT民営化で、三井物産㈱内で情報産業部門が新たにでき、そのお陰で私は社内転職することができたこをお話しました。
それ以外にもまだまだたくさんあるのですが、シリーズ「その時人生が動いた」で触れていきたいと思います。
| 固定リンク | 0
« 「マーキュリー通信」no.643【心の格差社会を考える-2「格差社会解消に必要なもの-それは愛」】 | トップページ | 「マーキュリー通信」no.645【私のコミュニケーション論-36「TPOを考える」】 »
コメント