「マーキュリー通信」no.651【その時人生が動いた-16 「三井物産退職」】
三井物産㈱を退職したのが丁度10年前の5月31日でした。
よく人から「何故三井物産を辞めたのですか?」と聞かれます。
私にとって三井物産を退職することは大きな決断ですから、辞めるに際しては10くらいの理由がありました。その根底にあるものは、私自身の「純な性格」から来るものがあります。私は、人生に使命感を感じながら生きてきた人間です。使命感を基に、人生目標を立て、それに向かって努力精進していくタイプです。そして自分自身を磨き、自己成長を通じ、「世の為、人為になる人間となろう」というのが基本的な人生の行動哲学です。
35年前に三井物産に入社した時には、全くの青二才だった菅谷信雄を三井物産は厳しく教育し、それなりの人材に育ててくれたインキュベーター(孵化器)のような感じがします。三井物産を退職してからの10年間は、三井物産の看板の大きさを痛感しています。そして物産マンであったことを誇りに思い、三井物産という器の中で私自身大きく成長することができました。その意味で、三井物産にはいくら感謝しても感謝したりません。
さて、私自身の人生を振り返った時に、10年毎に自分の人生が大きく変わってきました。三井物産を退職する10年前、つまり今から20年前、私はテレマーケティングの新会社㈱もしもしホットラインの設立に全力投球中でした。現場の責任者として、会社創業に関わる一切合切を担当させて頂きました。そして、㈱もしもしホットライン設立後は、営業担当役員として出向し、新会社が単年度黒字になるまで、4年近く㈱もしもしホットラインに在籍しました。この経験が私自身人生で一番実力がついた時期でした。
その10年前は妻との出会いがありました。
更にその10年前は、高校3年生、大学受験に全力投球中でした。その前年、家出して行方不明だった父と10年ぶりの再会となりました。父は私にとり反面教師でした。「父のような人間にはなりたくない」という思いが強く、私を受験勉強に駆り立てました。そして、一橋大学商学部に現役合格しました。青春時代、私の人生の型を作った頃でした。つまり、人生目標を立て、それに向かって努力精進するという人生の型ができあがったのがこの頃でした。
更にその10年前、7歳の時に父は妹と私を置き去りにして行方不明となりました。私が5歳の時に母は他界し、父はそのショックで家出をしてしまいました。
このように自分の人生を10年ずつに区切り振り返ると、大きな人生という川の流れを感じます。そして、その都度自分自身で人生を選択し、人生という川を菅谷信雄号という小さな舟で下っている感じです。その流れは、時には急流となり、時には緩やかな流れの時もありました。その都度、船長である私自身が小舟の針路を舵取りしてきました。私の人生は急流が多かったのですが、人生の急流にこそさおさして、小舟をうまくコントロールする方が私に合っているようです。なぜなら、過去に苦労したことは自分を磨き、怠惰は自分を駄目にすることを私は身をもって知っているからです。
さて、今年は又10年という節目の年ですが、大きく変わる予感がしています。
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コメント
メルマガの送信をお願いしたいと思います。
よろしくお願いします。
投稿: 綛谷毅雄 | 2019年2月 4日 (月) 11時14分
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投稿: 綛谷毅雄 | 2019年2月 4日 (月) 11時15分