「マーキュリー通信」no.2908【三菱地所株式会社杉山博孝社長の講演会「丸の内開発の変遷とこれからの街づくりビジョン」に学ぶ】
第19回一橋新経済人倶楽部(3月3日開催)は、三菱地所株式会社杉山博孝社長に「丸の内開発の変遷とこれからの街づくりビジョン」と題して語って頂きました。
丸の内開発の歴史は1890年(明治23年)に政府から丸の内の土地の払い下げを受けてスタートしました。
払い下げ価格は、丸の内8万坪、神田2万坪、合わせて128万円(坪12円)だったそうです。これは当時の東京市の年間予算の3倍、周辺地価の5倍だったそうです。同地域は今後鉄道網が敷かれ、発展すると予測していた政府の強気の価格でした。
当時陸軍練兵場移転後の三菱ヶ原は、三菱2代目社長岩崎彌之助に「竹を植えて虎でも飼うさ・・」と言わしめたほど、文字通り原っぱでした。
それが現在では大手町、丸の内、有楽町地区の120ヘクタールの土地に、ビル棟数104棟、建物延べ床面積678ヘクタール、企業総数4千社、上場企業本社数92社(連結売上高135兆円)、就業者数23万人を有する日本で有数のビジネス街となりました。
そこには同社の超長期の企業戦略がありました。
我々は丸ビル、新丸ビルを始め、そのハード部分に目が奪われがちですが、三菱地所グ
ループは「私たちはまちづくりを通じて社会に貢献します」という基本使命のもと、ソフトの部分も重視しています。
そこには、
「私たちは、住み・働き・憩う方々に満足頂ける、地球環境にも配慮した魅力あふれる
まちづくりを通じて、真に価値ある社会の実現に貢献します」という同社グループのポリシーが脈々と超長期に渡り受け継がれています。
又、同社のまちづくりの発展繁栄は、日本の「西洋近代化」から「高度成長」の歴史で
もあります。
超長期のまちづくりをしていく中では、時代や環境の大激変の時期もありました。
戦争で丸の内も焼け野原となりました。近年ではリーマンショックや5年前の東日本大
震災にも遭遇し、同社の企業業績にも少なからず影響を与えました。
しかし、それら幾多の困難を乗り越え、同社は今後もまちづくりの使命を掲げ企業成長
を続けていきます。
4年後には東京オリンピックが控えていますが、杉山社長は、急増する来日外国人者から経営上のヒントを頂くことも多いそうです。政府は東京オリンピックの時には来日外国人者数を2千万人から3千万人へと上方修正し、2030年には5千万人との見方もあります。
これは不動産業界にとってもビッグビジネスチャンスとなります。
同社は、外国人ワーカー、観光客向け宿泊施設として日本旅館の誘致や、中長期滞在者向けのサービスアパートメントの誘致を計画しています。
ソフト面ではiPadを通じたAR(拡張現実空間)により、様々なビジュアル情報を提供し
たり、wifiの充実化を図っていくことにしています。
昨年8月に常盤橋街区の再開発を発表し、話題となっています。
街区には大きく2棟のビル(A棟、B棟)が建つ予定ですが、B棟は最高高さ390メートルの予定で、これは現在日本で一番高い大阪の、あべのハルカスを超えて、日本一の高さのビルとなります。
このB棟完成時期は11年後の2027年の予定です。A棟、B棟合わせた2棟のビルの総床面積合計は63万㎡です。
この再開発によって、常盤橋街区は東京の顔、そして日本の顔になることを杉山社長は期待しています。
また、本プロジェクトは地下で東京駅及び周辺ビルと繋がることになり、地下街の充実化が更に図られ、常盤橋エリアの魅力が高まることが期待されます。
ユーモアも交えながらソフトタッチの杉山社長の語り口調に40名の参加者は全員引きつ
けられた1時間半でした。
◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
当時の如水会館記念東室は定員30名をオーバーし、40名の一橋人が参加しました。
当日の熱気と、参加者の笑顔と満足した顔を見ると、私自身も嬉しくなってきました。
幹事冥利につきたひとときでした(^ω^)
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