「マーキュリー通信」no.4249【人生に勝利する方程式-240「渋沢栄一ブーム到来」 】
2024年の新1万円札の肖像に決まって以来、渋沢栄一が一気にクローズアップされてきました。新1万円札をデザインしたタオルを私も購入し、飾ってあります。
そして、今週からNHK大河ドラマ「青天を衝く」の放映が開始されました。NHKの同ドラマにかける意気込みが伝わってきます。
渋沢栄一は、企業と非営利組織合わせて1000以上の設立に関わっています。
その1つに母校一橋大学(商法講習所が前身)があります。
その大半が現在でも残っている大手企業です。
日本初の国立銀行第一国立銀行、興銀(現在合併してみずほ銀行)、横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)、石川島播磨重工、東京海上、日本郵船、清水建設、王子製紙、帝国ホテル、サッポロ麦酒、東京製鐵他現在の日本を築いたそうそうたる企業ばかりです。
私の母校一橋大学からは上記企業に多数の卒業生が就職しており、多数の社長を輩出しています。
文字通り日本の資本主義の父といわれるにふさわしい人物です。その意味では1万円札には一番ふさわしい人のはずなのですが、なぜ今頃なのか不思議です。
渋沢栄一は、「論語と算盤」の標語で有名な方です。
江戸時代の商人は金儲けに走り、拝金主義が横行していました。
一方、武士は武士道精神に基づき理念は立派でした。
そこで、資本主義の精神に金儲けだけでなく孔子の論語の精神を取り入れました。これを合本主義と呼び、株式会社を次から次へと設立していきました。
そこに株式会社は単なる金儲けの組織ではなく、社会の発展と共にあり、社会貢献という概念も取り入れました。
この株式会社の中に、商人の金儲けの才覚と武士道の精神をうまく調和させながら日本独自の資本主義を発展させていきました。
これに対し、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人という最下層から這い上がり、裸一環で三菱財閥を築きました。
このため、当初は株式会社組織を否定し、岩崎弥太郎中心の金儲け主義に徹し、政商として巨万の富を築きました。
渋沢栄一の遺徳に預かろうと、私も最近渋沢栄一関連の書籍を再読し始めました。
渋沢栄一は、埼玉県の血洗島(現在の深谷市)の豪農の次男として生まれました。
好奇心旺盛で悪戯っ子の子供で、思い立ったら直ぐに行動に移すタイプの子でした。
また、正義感の強い子供で、幕府の悪政に憤りを感じ、尊皇攘夷しそうにかぶれ、幕府転覆を計画します。
しかし、この計画は事前に漏れ、未遂に終わりました。
渋沢栄一の運命を変えたのが、徳川慶喜との出会いでした。
あんなに忌み嫌っていた徳川家の御家人になったわけです。
そのおかげで、パリ万博他渡航して、視野見聞を広げました。
明治維新になってからは大蔵官僚として働くのですが、役人は性に合わず、辞任します。
そこから会社の設立に奔走します。
渋沢栄一の金銭哲学は、お金は自分が事業をやってきた証としての残りカスという感覚です。この点、岩崎弥太郎の金銭哲学とは対極的です。
この点、三井物産の創業者益田孝の使命感とも合い、親友づきあいしていました。ビジネス面でもお互いに影響し合った仲でした。
なお、一橋大学の前身商法講習所の設立者は矢野二郎ですが、渋沢栄一、益田孝とも親しく、この3人の絆が日本経済に大きく貢献しています。
渋沢栄一の小説を読み、私の性格は、渋沢栄一に似ているところがよく分かりました。
好奇心旺盛で、何でもチャレンジし、直ぐに行動に移します。
また、正義感が強く、今でも政府の国民不在の政治に憤っており、何とか国を変えたいと思っています。
また、三井物産創業者の益田孝の創業精神「不利は追うな」にも共鳴し、私の金銭哲学となっています。
これまでは私は歴史上の人物として龍馬を一番尊敬し、龍馬のごとく行動してきました。
今回これに2番目に尊敬できる自分つとして、渋沢栄一が新たに加わりました。
龍馬が創設した海援隊は、三井物産の創業精神ともなっています。
龍馬、渋沢栄一、益田孝、この3人が私の精神的支柱となって生き続けています。
◆参考文献:渋沢栄一100の訓言(渋澤健著 日経ビジネス文庫)
小説渋沢栄一(津本陽著 幻冬舎)、「富と幸せを生む智惠」(渋沢栄一著 実業之日本社)他
◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
3年前に豊島区から北区に引っ越してきました。
北区の飛鳥山には渋沢栄一の邸宅があります。北区ではここを現在改造中です。
北区では渋沢栄一の記念切手を発行したり、書籍も出版しました。
渋沢栄一を北区の発展の目玉として、PR中です。
これも何かの縁と思っています。
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