「マーキュリー通信」no.4382【人生に勝利する方程式-258「渋沢栄一の論語と算盤に学ぶ-11『強運に恵まれた渋沢栄一がいなければ現在の日本型資本主義は育っていない』」】
渋沢栄一の一生を見ると強運に恵まれた人生といえます。
腐敗した幕府に憤り、仲間と共に高崎城乗っ取り作戦を計画します。
いざ実行の段階で、従兄弟の長七郎の猛反対にあい、頓挫します。当然、見つけられれば牢屋に入れられ、打ち首となります。処刑を免れるために、京都に身を隠します。
一方、一橋家の筆頭家老平岡円四郎は、町民に時代を変える優秀な若者を探していました。
平岡は、渋沢栄一の高崎城乗っ取り事件の情報を得ていました。
当時の普通の幕臣なら、渋沢栄一のような危険思想を持っている人物なら当然打ち首です。
しかし、平岡円四郎は、渋沢栄一の長所を見て、幕臣に抱えます。
その平岡円四郎は、改革に反対する地元水戸藩の藩士に暗殺されます。
しかし、渋沢栄一の言動を見ていた平岡円四郎の上司、水戸藩主一橋慶喜は渋沢栄一を高く評価します。
その後、慶喜は水戸藩主から第15代将軍となります。
渋沢栄一は、水戸藩士から幕臣に転身します。
先進的な考えの持ち主新将軍徳川慶喜は、幕府再興のために弟昭武をパリ万博に派遣します。そのお供に渋沢栄一を抜擢します。
慶喜の大英断がなければ、渋沢栄一はパリを含めた欧州視察はありませんでした。
そこで、渋沢栄一は近代資本主義を学びます。
欧州使節団は総勢29名でしたが、日本に資本主義を導入しようと考えたのは渋沢栄一ただ一人でした。
慶喜以外の将軍だったらこのような考え方は思いも及ばなかったかも知れません。
その意味で、慶喜と渋沢栄一の結びつきと信頼関係がなかったなら、近代資本主義は誕生しなかったかも知れません。
何でも前例踏襲の天皇と公家、幕府の役人に、「尊皇攘夷」しか頭になかった当時のトップに対し、私はこの二人の頭文字をとってYES(慶喜+栄一渋沢)と名付けました。
この前例を否定し、新しい時代を切り開いていくYESの二人がいたおかげで近代日本が想像以上のスピードで発展していったのではないかと考えています。
◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
私の人生を振り返ると実に運が良い人生だったと思います。ちょっと数えただけでも30以上ありました。
その1つをご紹介します。
カナダ三井物産駐在の頃、「飲む打つ買う」の鉄鋼営業マンの営業手法に限界を感じていました。また、当時のバンクーバー支店長やカルガリー所長が、立身出世の為に
度を超したゴマすりに辟易し、三井物産の退職を考えていました。
その頃、中曽根内閣が通信の自由化を推進するために電電公社の民営化を決断しました。
そこで、三井物産でも情報産業部門を設立することとなりました。
私はカナダ三井物産社長に直訴し、新設する情報産業部門に異動させて欲しいと訴えました。もし、ノーと言われれば、三井物産を退職するつもりでしたが、OKとなり、私の情報産業部門行きが決まりました。
その頃、第2次石油ショックが起こり、鉄鋼部門は大不況となり、減員のため私の帰国は1~2年早まりました。
帰国してから情報産業部門に異動する前に、鉄鋼総括部システム統括グループに異動となりました。
ところがシステム統括グループの上司の都合で、私の情報産業部門への異動が半年遅れました。
その為、上司となる室長が大阪支店に異動してしまいました。
そこで急遽H氏が後任人事が決まるまで2つの営業室長を兼任することになりました。
H氏は情報産業部門中興の祖で、実力ナンバーワンの人望篤き人でした。
もし、H氏が私の上司でなかったらテレマーケティングの新会社設立事業はなかったと思います。並の室長なら、商社には不向きなテレマーケティングの新会社を創るという発想は思い浮かびません。事実、当時テレマーケティングの新会社を創ったのは三井物産だけでした。
私はテレマーケティングの新会社設立の責任者に任命され、H氏が新会社㈱もしもしホットラインの社長になるという条件で稟議許可が下りました。
㈱もしもしホットラインは大成功し、その経験を活かして同社の創業10年後に私は三井物産を早期退職することとなりました。
今自分の人生を振り返ると実に運が良かった人生だったと実感しています。
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