「マーキュリー通信」no.5415【人生に勝利する方程式-341「縁を活かし、即決断して、人生を切り開いていく」】
渋沢栄一は、埼玉県深谷市で豪農の長男として幕末の1840年に生まれました。
天才的な頭脳の持ち主で、正義感が強く、若い頃はけんかっ早い性格でした。
18歳の時、理不尽な代官に腹を立て、「幕府は腐っている。倒すしかない」と仲間70名を集めて、高崎城乗っ取り作戦を計画します。
それを知った従兄弟が必死で制止し、何とか暴走を食い止めました。
しかし、栄一の暴動計画は漏れてしまい、暗殺の危機が迫ります。
その時、千葉道場で知り合った水戸藩の役人平岡円四郎から、「俺の子分にならないか」と薦められます。平岡の上司には、後の将軍となる一橋慶喜でした。
栄一は迷います。平岡の申し出を受けることは、仲間を裏切り敵前逃亡となるからです。
栄一は、70名では力の弱さを認識し、水戸藩の力を借りて倒幕しようと決意しました。
その後、平岡は暗殺されてしまい、栄一は慶喜の直属の部下となります。
その後、栄一は、慶喜からパリ万博行きの随行団に参加するよう命じられます。
当時欧州は産業革命の最中でした。
軍事力、蒸気機関車、ガス灯、電信他日本との産業格差をまざまざと見せつけられます。
また、資本主義を学びます。
この時の体験が、後に日本に資本主義を導入し、渋沢栄一自身500の会社を起業する原点となりました。
しかし、渋沢栄一は、幼少の頃から論語を徹底的に学んだため、金儲けには道徳が必要であり、士魂商才という概念を導入しました。後に渋沢栄一の論語と算盤として有名となりました。
一方、栄一がパリ滞在中に大政奉還が起こり、慶喜が第15代将軍となりました。倒幕側にいたはずが、幕府内の人間となってしまいました。しかし、栄一は、体制が変わっても、慶喜についていくことを決めました。
さて、もし栄一が水戸藩の役人平岡円四郎からの申し出を断っていたら、暗殺されていた可能性があります。
そうなると日本の資本主義はどうなっていたのでしょうか。
当時最大のライバルに三菱財閥の創設者岩崎弥太郎がいました。
岩崎は、大勢の人の力を借りて産業を興すより、岩崎弥太郎のように力のある少数のトップリーダーが産業界を引っ張って行けば良いと考えていました。その結果貧富の差が大きい格差社会が問題となっていたかも知れません。
世の中にはせっかくの縁に恵まれ、縁を活かさない人が実に多いです。
渋沢栄一の事例を見ながら、いかに縁を大切にし、活かすと、人生が好転し、運命が開けていくことの重要性を学びました。
◆◆◆◆◆◆追記◆◆◆◆◆◆◆
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