「マーキュリー通信」no.5497【知らぬが佛と知ってる佛-37「やはり、義経はチンギスハ-ンだった!」】
源義経が大陸に渡りチンギスハーンになったという伝説を聞いたことがある人は多いと思います。
しかし、歴史学の第1人者田中英道先生の著書「やはり、義経はチンギスハ-ンだった!」(文芸社)を読むと現実味を帯びてきます。
田中英道先生は、歴史の事実を基に本件を検証しています。
義経の絵、現存するモノは30歳頃の義経1枚だけだそうです。
これに対し、チンギスハーンの絵は60歳頃のものです。
年齢の差はあるものの極めて似ていると田中先生は判断しています。
チンギスハーンを漢字で書くと、成吉思汗と書きます。
義経の妻静御前が辞世の句を謡います。
そこに吉野に成て、水牛=汗を思うという返歌となります。
義経が大陸に渡り、チンギスハーンとして活躍する時代はつじつまが合います。
モンゴルではチンギスハーン誕生の秘話があります。
それに基づいた映画も私は観ました。
しかし、それは全て作り話と田中先生は推論しています。
チンギスハーンになる前はテムジンと名乗っていました。
義経は、自らを天神と名乗っていましたが、蒙古読みするとテムジンとなります。
チンギスハーンが住んでいた熱河省の地名を平泉(へいせん)というそうです。
モンゴル城跡の城主はくろーと称していたそうです。義経は九郎義経と言います。
国名は元ですが、これは源を音読みにするとげんと読みます。
また、源義経をモンゴル語では「ちんぎせーはん」と発音するそうです。
チンギスハーンとなった義経は、平和な分権国家を目指していました。同時に道徳も教えました。
それが世界最大の蒙古帝国となりました。
長さを測る単位として、日本の寸と西洋のインチはほぼ同じなのはその名残と推測されています。
それではなぜ異民族の日本人、義経をモンゴル人が受け入れたのか。
モンゴル人は、天皇陛下が統べるヤマトにある種の畏敬の念を持っていました。
それが義経をリーダーとして受け入れる素地があったのではないか。
チンギスハーンのとった戦術は、義経のひよどり越え他、かなり似ているそうです。
チンギスハーンの時代は平和国家でした。
しかし、モンゴル人の遊牧民族としての支配欲、暴力性が次第に出てきて、3代目のフビライハーンの時になると、祖父の住んでいた日本を攻める事になってしまいます。
元寇は、時の鎌倉幕府北条時宗のおかげで強大な蒙古軍を撃退できました。
しかし、この大失敗がモンゴル帝国の弱体化に繋がります。
そして、スペイン、ポルトガル等欧州勢力が力を持ち、彼らの帝国主義へと世界史は移っていきます。
その意味で、元寇は世界史上、東洋人の世界から西洋人の世界へと歴史がシフトした重大事件でした。
戦後、日本はGHQに支配されました。
GHQとしては、義経=チンギスハーン説の正当化は国威発揚に繋がるので、禁止しました。
そして、現在では都市伝説になってしまいました。
詳しくは本書を読むともっと驚愕の事実が分かってきます。
心をわくわくさせるような内容です。
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