「マーキュリー通信」no.5514【強運に恵まれた私の人生-5「一橋大学商学部現役合格」】
前回の「マーキュリー通信」で、【強運に恵まれた私の人生-4「10年ぶりに父が家出から帰ってきたので、伯父の自転車店の跡取りの予定が消滅」】を書きました。
ホームレス状態の父のみすぼらしい姿は今でも脳裏に焼き付いています。
その時、「絶対に父のような人生を歩みたくない!」と強く想いました。
街の自転車屋の跡取り息子がなくなり、自分自身どうしたら良いか、真剣に考えました。
そこで出た結論が、「日本は資源小国。貿易が国是。それなら将来世界を股にかけるビジネスマンになって國に貢献しよう」と決意しました。
そのために一橋大学商学部に進学するのがベストとの結論に達しました。
しかし、それまで勉強らしい勉強をしたことがなかった訳ですから、今想えば無謀としか言いようがありません。
また、家が貧乏だったので浪人はできません。
一橋大学合格のために、受験戦略と戦術を立てました。
受験戦略は、一橋大学の受験科目は英数国の3科目でした。
その内、英数は私の得意科目でした。
しかし、現代国語は苦手でした。
そこで、現代国語で評判の高い横田賀太郎先生の許を尋ね、趣旨を説明し、了解を取り付けました。
朝日新聞の天声人語と社説を読解し、毎日横田先生にチェックしていただきました。
また、都立神代高校は、一応進学校ですが、大学受験をする雰囲気ではありません。
そこで、親しくしていた生物の矢野善久先生に、国公立、早慶他一流私大希望クラスを作るようにお願いしました。そして、矢野先生には担任もお願いしました。先生は、私の申し出を快く受けて頂きました。
その年、1968年だけ、一橋大学現役合格者、そして早慶他一流私立大合格者が続々と輩出しました。
一方、私は高校受験の際、一番最初の受験科目国語でつまずきました。
上がってしまい、手が震えたため、一番得意な漢字の書き取りが良くできませんでした。
これが影響して、得意の数学もNGでした。その結果、当時最難関校立川高校を1点差で不合格でした。
そこで、1年半徹底的に受験勉強しました。
同時に、国立にある一橋大学を訪ね、有名な兼松講堂の写真を自撮り、その写真をいつも眺めていました。
そして、自分は既に一橋大学の学生になったとイメージしていました。
その頃は全く知りませんでしたが、今でいうイメージトレーニングであり、予祝でした。
また、大だるまを買って、片目だけ墨を入れ、合格したらもう片目にも墨を入れるつもりでした。
さらに、一橋大学の手ぬぐいを頭に巻き、背水の陣で臨みました。
その他受験戦術は多数ありましたが、ここでは省略します。
翌年2月一橋大学商学部の倍率が前年の4.7倍から7.9倍に跳ね上がりました。
私が産まれた昭和24年はベビーブームの年で一番新生児が産まれた年でした。
この倍率を知り、さすがにびびりました。
翌月3月9日に発表がありました。
私の受験番号は359でした。直ぐには怖くて見ることができません。
周囲から徐々に359番に視線を移していきました。そして、359番を見つけました。
私が生涯で一番感動した瞬間でした。
これはまさに天佑、神のご加護としか思えませんでした。
◆◆◆◆◆◆追記◆◆◆◆◆◆◆
担任の矢野先生は、その後都立忠生高校の校長に出世しました。
転勤となってからも、矢野先生とは良く会いました。
ある時、先生の奥様から電話がありました。
死の直前、先生が菅谷君に会いたいと言っていたので、是非線香を上げに来て欲しいと頼まれ、先生の通夜に参列しました。
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