「マーキュリー通信」no.5813【強運に恵まれた私の人生-18「中曽根内閣の時に通信の自由化決定、三井物産でも情報産業部門新設」】
昨日の「マーキュリー通信」では、新築の高級タワーマンションに引っ越したことを書きました。
駐在員の任期は先進国では通常最低4年となっています。
だから家具も高級マンション用に全て買い換えました。
しかし、当時日本の鉄鋼業界は未曾有の不況となり、粗鋼生産が1億トン割れとなりました。
私のカルガリー出張所勤務は増員でした。
しかし、大不況で私の仕事も暇となり、8か月早く帰任することになりました。
その頃、私は鉄鋼の営業は自分にあまり向いていないと感じていた頃でした。
高校2年生の時に、「世界を股にかけるビジネスマンになる」という夢は、カナダ三井物産勤務で達成しました。
しかし、現実には鉄鋼メーカーの幹部の接待やカナディアンロッキー観光の運転手をする仕事が多く、「俺はこんなことで三井物産に入ったわけでない」と心の葛藤がありました。
当時鉄は国家なりの時代でしたが、いずれは中国の鉄鋼業にとって代わられ、私はその終焉を予測しました。そして三井物産を退職しようかと考えていた頃でした。
その頃、中曽根内閣は、通信の自由化を決定しました。
三井物産でも政府の動きに呼応して、10年ぶりに新たに情報産業部門を創設することになりました。
三井物産では、営業部門が変わることは、転職を意味していたので、大きなハードルでした。
もしそれが分かったら周囲からバッシングされます。
そこで私は直属の上司には内緒で、カナダ三井物産社長に、鉄鋼部門から新設の情報産業部門への異動を直訴しました。
もしノーなら三井物産を退職する覚悟でいました。同社長からは、「鉄鋼総括部では、鉄鋼メーカーとの企業間オンラインシステムの構築で超多忙だ。そちらを2~3年手伝ってからならOK」となりました。
かくして、私は1984年5月1日に帰国し、鉄鋼総括部システム統括グループに異動となりました。
◆◆◆◆◆◆追記◆◆◆◆◆◆◆
鉄鋼メーカーの幹部の接待の1つは麻雀です。
私の役割は、麻雀セットの手配です。一番の若造だったので、麻雀のメンツには参加しません。
彼らの食事の手配や、ビールはウィスキーをつぐ役割です。
ある時、N鋼管の原料部長N氏が一言「腹が減った」と言いました。
その後、本店の石炭部長に、「今度赴任した菅谷というのは氣が利かない。俺が食事の手配を頼んだのに無視された」と怒りの剣幕でした。要は、同部長が、麻雀を始める前に本日の希望のメニューを聞かなかったことに腹を立てたようでした。
同部長にはもう1つエピソードがあります。
カルガリーから出張でアルバータ州都エドモントン市に出張したときのことでした。
東部のオンタリオ州のトロントでは丸紅の接待、西部のアルバータ州のエドモントンでは三井物産の接待となっていました。
ところがホテルに着くと、麻雀セットがないことが分かりました。
N部長は烈火のごとく怒ります。その時、本店石炭部長も一緒にいました。たまたまバンクーバーのJTBに息子が勤務していました。そこで同部長は、息子さんに「麻雀セットを一式持って、エドモントンまで飛んでこい」と指示しました。
バンクーバーとエドモントンの距離は、東京~札幌くらいの距離です。
同部長の機転で、私の大失敗は帳消しとなりました。
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