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2025年6月 4日 (水)

「マーキュリー通信」no.5797【ワンポイントアップの感謝力-73「Mr.プロ野球巨人軍長嶋茂雄終身名誉監督を偲ぶ」】


昨日89歳で他界した長嶋さんの2時間の緊急特番を涙しながら視聴しました。
野球人生一筋の長嶋さんでしたが、89歳のヤキュウーの年、すなわち野球人生一筋の年に亡くなったのですね。しかも6月3日、3の日でした。

私も長嶋さんの背番号3に因んで数字の3が好きで、3に縁のある人生でした。
小学校は1年から6年生までずっと3組でした。
長嶋さんが巨人軍に入団した昭和33年、私は3年3組でした。33のぞろ目でした。

昨日の特番は、在りし日の長嶋さんを思い出しながらの2時間でしたが、その中から私の感激シーンベスト10を紹介させて頂きます。読者の皆さんの感想はいかがですか?

第1位 昭和49年10月長嶋茂雄の引退セレモニー
やはりこのシーンが今でも一番目に焼き付いています。このシーンを観る度に目頭が熱くなります。

第2位 ONとして巨人黄金時代を築き、V9を達成。
よく記録の王、記憶の長嶋と言われます。記録なら本塁打で868本の世界記録を打ち立てた王貞治の方が上です。
しかし、長嶋さんの明るさ、ファンをいつも楽しませようという想いが長嶋ファンを多数作り、Mrプロ野球と言われるほどに国民から愛される存在になったのだと思います。そして、プロ野球を国民のスポーツにした功績も大きいです。

第3位 松井秀喜をドラフト1で指名する強運、そして松井を不動の4番打者に育成
高校生では不動の4番打者をプロ野球でも見事巨人の不動の4番打者に育成した手腕はあっぱれです。
そのおかげで松井秀喜はヤンキースで活躍できました。私は、プロ野球選手ではONに継いで松井が3番目に好きです。人間力も長嶋監督が育てたのでしょうね。
その意味で、松井2世と言われた秋広優人内野手を、思いつきでトレードに出してしまった阿部監督は猛省すべきです。ファンは、華のあるスターの出現を待望していることを理解して欲しいと思います。

なお、松井の新人の年に、私は声のブロマイドという商品を開発しました。そのブロマイドに松井が登場します。ICチップに松井の声を10秒間吹き込みます。「ジャイアンツの松井です。将来のホームラン王を目指してがんばります。みなさん応援してください」というメッセージを吹き込むために、松井と会いました。
当時の松井は2軍の多摩川休場から、先輩元木大介の車に乗って東京ドームにやってきました。その車内で吹き込みました。車内は、松井の体の大きさで、すごく小さく見えたのが、今でも思い出します。
その商品を今でも大切に保管しています。写真は松井のホームラン第1号です。残念ながら声はバッテリー消耗で消えてしまいました。

第4位 昭和34年天覧試合でサヨナラホームラン
普通の選手なら天皇陛下の御前試合で緊張するはずが、それをファイトに切り返してしまう長嶋茂雄、当時からスター性充分だったのですね。

第5位 94年10月8日中日と首位決戦で勝利、ペナントレースで見事逆転優勝 
最大首位中日に10.5ゲーム差を離されていたにも拘わらず、諦めずに逆転優勝しました。当時長嶋監督が言っていたメークドラマが流行語となりました。

第6位 2000年ON日本シリーズ、長嶋巨人が逆転優勝
ファンの夢であったONの日本シリーズ対決が1度実現。当初王監督率いるソフトバンクホークスが連勝して優勢でした。しかし、その後4連勝で逆転優勝しました。いかにも長嶋さんらしい勝ち方でした。

第7位 デビュー戦 大投手国鉄スワローズ金田正一と対戦、4打席連続4三振
6大学の1つ、立教大学で8本の本塁打という新記録を打ち立てた新人長嶋茂雄に対し、大投手金田正一が敢然と立ち向かいます。結果、4打席連続三振という不名誉な記録。しかし、その年、長嶋茂雄は打点、本塁打の2冠王を取ります。打率も3割越えでした。
なお、その後金田正一投手は巨人に移籍し、400勝という不滅の世界記録を樹立します。

第8位 幻の本塁打、1塁を踏み忘れ、本塁打取り消し。
おっちょこちょいの長嶋さんの性格を表しているエピソードです。これがなければ、新人の年に30本塁打という記録を打ち立
て、新人王に花を添えました。

第9位 監督就任の年に屈辱の最下位、巨人としては史上初
これに対し、私は川上監督に一言苦情を言いたいです。
コーチ経験もなく、長嶋人氣を優先していきなり監督をさせることは酷でした。まずはコーチとしてじっくりと監督見倣い業をさせてから監督に昇格させるべきでした。
しかもONの一角、長嶋茂雄が抜けたわけですから、戦力は大幅ダウンでした。よって他球団から臨時的に4番打者を獲得し、急場をしのぎ、次世代の若者を育成してからバトンタッチすべきでした。

第10位 脳梗塞で倒れる
2004年に脳梗塞で倒れます。不撓不屈の精神でリハビリして、左腕が使えるようになりました。
これが国民に勇気と希望を与えました。あれから21年、脳梗塞の後遺症をひきずったまま良く頑張ったといえます。一言「ご苦労様でした」とねぎらいの言葉を伝えたいと思います。そして、別の意味で、長嶋さんの存在は国民に与える愛の存在となりました。

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