私を育ててくれた元上司達

2009年11月 6日 (金)

boblog「マーキュリー通信」no.1216【私を育ててくれた元上司達-19 番外編「上司への思いが世代を超えて伝わる」】

「私を育ててくれた元上司達」は結構人気のシリーズでしたが、本年1月18日に18回で終了しました。
 物産マン時代実に多数の上司の世話になりました。
 その中でも一番好きな上司が鉄鋼部門に異動した時の上司土井貞夫さんでした。土井さんは残念ながら50代前半の若さで他界されました。

 土井さんには3年間使えましたが、徹底的にスパルタ教育を受けました。毎日のように殴られていましたから、通算で数百回は殴られたことになります。
 そんな土井さんを何故一番好きだったのか。それは土井さんの私に対する愛情を感じたからです。

営業未経験の私を徹底的にしごき、一人前の営業マンにしてくれました。
 土井さんのしごきがなければ、今日の私がなかったからです。そして、土井さんは裏表がなく、純な性格でした。その面で私と相通じるものがありました。

 土井さんへの思いは、2005/10/31のboblog「マーキュリー通信」で書きましたが、たまたまお嬢様の真紀子さんの目にとまり、本日感謝のメールを戴きました。

 子煩悩の土井さんは、真紀子お嬢さんのことをいつも話していました。だから私の脳裏には「真紀子さん」の名前は焼き付いています。

 そのお嬢様からメールを戴き感激しています。これぞブロガー冥利に尽きるものです。Doi0000 こういう事もブログを書く喜びの1つです。
(写真は、私の結婚披露宴に出席したときの土井さん。1979年12月1日)

 土井さんに関するブログは、下記URLをクリックして下さい。
http://mercurytsushin.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/no224_563b.html

◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
本日、再度土井さんの事を思い出し、土井さんに対する感謝の思いがこみ上げてきました。
私は今年還暦を迎えましたが、人生は感謝と報恩だと思っています。
この思いで生きていく限り、良い人間関係を築きながら、良い人生を全うできるのではないかと思っています。 
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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2009年1月18日 (日)

boblog「マーキュリー通信」no.1048【私を育ててくれた元上司達-番外編2「私と縁を頂いた50人の三井物産の社長・役員の方々」】

 三井物産は新社長飯島彰己専務(58)の発表がありました。50代の社長は、戦後三井物産では初めてのことです。
 飯島次期社長は、同氏の経歴を見ても、特に社長になるような経歴ではなく、先輩役員を一気にごぼう抜きにした感じです。その意味で槍田社長の勇気ある抜擢人事に飯島新社長がどう応えるか期待されるところです。私と同じ鉄鋼部門の出身なので、陰ながら応援しています。

 さて、飯島新社長は1974年入社なので、私より2年後輩(年齢は1つ年下)です。私が入社した頃、社長はおろか三井物産の役員は雲の上の存在でした。その意味で、今回の新社長人事は身近に感じます。

 私は、三井物産に25年間勤務しましたが、その間直接間接50名の役員に仕えました。年を経るに従い、雲の上の存在からだんだん距離が近くなっていきました。仕事面での指導を受け、私の人事への影響等本当にお世話になりました。
 そして、三井物産を卒業して12年が経過する現在、私を育てて戴いたことに対し、改めて感謝の思いが湧いてきます。

 シリーズ「私を育ててくれた元上司達」は、boblog「マーキュリー通信」の読者から人気の高かったブログの1つでもあります。自分とは直接関係ないけれど、読者の皆様の社会人人生と重なる部分や参考になる部分が多々あったとの評価を戴きました。

 これでシリーズ「私を育ててくれた元上司達」は終了です。長い間、ご支援をありがとうございました。

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2008年9月14日 (日)

「マーキュリー通信」no.992【私を育ててくれた元上司達-番外編1「三井物産㈱元会長橋本榮一氏」】

「マーキュリー通信」no.992【私を育ててくれた元上司達-番外編1「三井物産㈱元会長橋本榮一氏」】
 Hashicmotokaicho0000 三井物産㈱元会長橋本榮一氏が8月12日に98歳で永眠されたという訃報に接しました。私が昭和47年に三井物産㈱に入社した時には副社長でした。当時は雲の上の存在の人でしたからもちろん面識はありません。

 橋本榮一氏が昭和44年に当時の八幡製鉄所の社員を前に講演しました。その内容を取りまとめた小冊子が昭和59年に「人が仕事をつくり、仕事が人を磨く」として、社員向けに配布されました。

 この度訃報に接し、改めて橋本榮一氏の遺作を20数年ぶりに読んでみました。すると当時とは又違った感覚で読むことができました。

 その中で一番印象に残った箇所は、商社マンとメーカーの人間のものの考え方の違いです。

 メーカーの頭の回転の仕方は、車の軸心の動き方、即ち、求心的に深く動く。スローでいいから、非常に深く、じっくりと動く。これがメーカーの頭の仕方、ものの考え方である。

 一方、商売人の頭の回転は外輪的な動き方をする。頭も体の回転は、遠心的に大きく回らなければいけない。

 この一節は、若い時に読んでもピンと来なかったと思います。今だからこの一節を充分理解できるわけです。現在の私の頭の構造も、体の動き方もまさに橋本榮一氏が指摘した通りになっています。
 だから私のものの考え方や動き方は商売人そのものであり、商売人とメーカーの人間との役割分担があるのだと思います。

 そして、この小冊子のタイトルを改めて眺め、まさにその通りだと実感しました。私自身も、自ら多数の仕事を作ってきたし、仕事を通じて成長できてきたことを実感します。

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 【 編 集 後 記 】
 私の前を歩いていた若い女の子2人が、周囲に全く気を遣う様子もなく火のつ
いたままたばこの吸い殻を突然ぽーんと捨てました。
 一方、近くの山手線大塚駅前では、「豊島区ではたばこのポイ捨ては禁止です」
と歩行者に訴えかけています。

 先日、JTの社長が、英国のたばこが1箱1000円なので、日本もそれに倣い、
1000円にすべきだとの意見があるが、それは横暴だと憤慨していました。
 喫煙者のマナーは最近大分良くなってきたので、今後もマナー改善に尽力して
きたいと抱負を語っていました。

 喫煙者と非喫煙者の意見やものの見方は全く視点も異なります。確かに、昔と
比べれば、喫煙者のマナーは改善されたと思いますが、「たばこを吸ってもよろ
しいですか」と非喫煙者を気遣い、一声かける喫煙者はまだまだ殆どいません。
 このような気遣いをすることが、マナーの原点だと私は思いますが。

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2007年10月26日 (金)

「マーキュリー通信」no.749【私を育ててくれた元上司達-17「私と縁を頂いた50人の三井物産の社長・役員の方々」】

三井物産に25年間勤務しましたが、私が接した役員の数は約50名になります。若手の頃には、雲の上的存在だった役員も今や同期の出世頭は常務まで昇格しており、身近な存在に感じられます。
 サラリーマンの出世には多少運不運がつきまとい、もっと出世して然るべき人が出世しなかったり、逆にあんな人がよく出世したものだということが過去にはありました。
 しかし、三井物産という会社を考えた場合、私がよく知る人はやはりそれなりに出世をしています。同期で現在4名が常務で、全員私と何らかの縁がありますが、全員順調に出世して然るべき素材と思っています。現在は、外野席から役員の出世レースを見ていますが、知っている物産マンが出世するのはうれしいものです。

 さて、私が接した50名の役員の方からは、私自身有形無形の影響を受けています。三井物産の標語に「日本で生まれ、世界で育った三井物産」というのがあります。まさに、世界に雄飛した物産マンだけあって、それなりの見識と人格が備わり、それが風格となり、知らないうちに影響力を発揮しています。仕事が人を育てるとよく言いますが、まさに言い得て妙です。

 昨年、三井物産創業130年を記念して、「三井物産のこころ」という本(非売品)を出版しました。
 同書には、三井物産の創業者益田孝の挑戦と創造の精神が脈々と流れていることが同書を読むことで理解できます。益田孝初代社長は、弱冠27歳の若さで社長に就任しました。当時外国との貿易は不平等条約の下、外国人の貿易業者にいいようにあしらわれていました。その不平等貿易を変えようと益田孝は立ち上がりました。そして、興国のため、決して浮利を負わないというのが創業の精神でした。これは益田孝を支えた渋澤栄一翁の精神とも一致していました。
 しかしながら、三井物産自身制度上のひずみが出てきて不祥事を起こすようになり、今後2度のそのような不祥事を起こさないようにと益田孝の創業の原点に戻り、「三井物産のこころ」を出版しました。社友である私にもその気持ちが伝わってきます。

 本書を読むことで、三井物産というのれんを代々の物産マンが営々と築き上げ、その上に現在の我々が成り立っているのだとわかり、感謝の念が沸々とこみ上げてきます。
 私自身三井物産に入社の動機は、「資源小国の日本において、貿易を通じて日本に貢献したい。そのために世界に雄飛できるようなビジネスマンになりたい」であり、創業者益田孝初代社長の思いに通じるものがありました。
 金さえ儲かればよいという昨今の風潮に警鐘を鳴らし、商売、ビジネスの原点に立ち返り、三井物産並びに多数の物産マンから受けてきた恩義や縁に感謝し、本シリーズ「私を育ててくれた元上司達」を終えたいと思います。

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2007年10月16日 (火)

「マーキュリー通信」no.740【私を育ててくれた元上司達-16「住宅金融支援機構総裁島田精一氏(三井物産元副社長)」】

島田精一氏は、三井物産では副社長まで昇進され、次期社長候補の一人でもあった方です。私との関係は、島田精一氏が、情報産業本部長時代の上司でした。
 当時私は情報通信事業部の新規事業責任者で稟議書を多数申請していたので、島田本部長と接する機会は結構ありました。
 新規事業は、よく千三つの世界といわれます。私の場合もその通りで失敗の連続でした。当時私には新規事業を成功させよう、第2の㈱もしもしホットラインを創るのだという焦りみたいなものがありました。意気込みやバイタリティ、行動力は人一倍ある私ですが、なかなかうまく軌道に乗せることができず、空回りしていました。
 島田本部長は、当時そんな私の焦りを見抜いていたようで、私が稟議書を持って行くと核心を突いた質問を浴びせてきます。本部長として、大所高所から事業をご覧になっていたようです。さすが三井物産の副社長になった方だけあり、やはり見識の高さではぬきんでていたようです。
 島田さんは、85年メキシコ駐在の頃、無実の罪で半年以上牢屋に捕らわれていたという前代未聞の苦労もされた方です。
 しかし、もともとねあかでそのような島田さんと接していて暗い部分は一切出てきません。我々部下に対しても気遣いをしてくれるジェントルマンタイプの上司で、私自身学ぶところも大でした。

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2007年10月 5日 (金)

「マーキュリー通信」no.734【私を育ててくれた元上司達-15「三井物産参事佐藤安武氏」】

佐藤安武氏は、日本のオフィスにカーペット革命を起こした方です。昭和40年代の日本では、カーペットは贅沢品であり、事務所に敷くという発想はありませんでした。
 当時、佐藤安武氏はカーペット商売で大量の在庫を抱えることになる。大量の在庫をさばくためにはどうしたらよいのか?
 佐藤安武氏は、オフィスにカーペットを敷くことを考えつきました。しかし、周囲からは非常識といわれ全く相手にされませんでした。しかし、米国ではオフィスにカーペットを敷いているかどうか調査すると、オフィスにカーペットを敷くことは当たり前のことでした。そこで、上司を説得し、米国に出張し、現地視察をしてきました。カーペットを敷くことは、清掃も簡単であり、長期的に見て、維持費用が安くつくことが分かりました。米国のオフィス事情を目の当たりにして、佐藤安武氏は日本でもカーペットは普及するとの確信を得ました。
 帰国後、米国のカーペット事情を周囲に説明しても、「日本と米国とは事情が違う」と取り合ってくれませんでした。

 一方、当時三井物産では大手町に新社屋を建設する計画でした。そこで、佐藤安武氏は、三井物産にカーペットを売り込みに行きました。佐藤安武氏は、自分の会社に商品を売ることの難しさを実感しました。しかし、それでもめげずに担当役員を口説き落とし、何とか三井物産の大手町新社屋全館にカーペットを敷くことに成功しました。
 三井物産の大手町新社屋は昭和51年11月(1976年)に完成しましたが、これが最大のPR効果となり、日本のオフィスにカーペット革命を起こしました。カーペット商売は三井物産の独壇場となり、佐藤安武氏は旋風児として一躍有名になりました。
 佐藤安武氏は、それ以外にも様々な新規事業にチャレンジし、三井物産では一番たくさん稟議書を書いた男と言われ、生涯52の稟議書を書き、成功率は58%だったそうです。

 さて、私自身佐藤安武氏と個人的に知り合ったのは、佐藤安武氏が60歳を超えてからでした。丁度胃の手術をした後でした。佐藤安武氏の過去の業績は知っていた私は、佐藤安武氏と知己になること自体光栄でした。私もチャレンジングスピリット旺盛な男なので、佐藤安武氏とは直ぐに親しくなりました。佐藤安武氏は三井物産時代最後の私の上司というより、師範、師匠と言った方が良いかもしれません。
 実に発想力豊かで、豪放磊落な方で、私自身浴びるようにして佐藤安武氏のこれまでの経験・ノウハウを吸収させていただきました。
 ただ、惜しむらくはヘビースモーカーのため、健康を害し、62歳の若さで他界されたことが惜しまれます。
 佐藤安武氏の人生スローガンは、三井物産の社是社訓である「挑戦と創造」です。
 生前57歳の時に、佐藤安武氏は、自分の半生を振り返り「知的財産の生前贈与」という本を2ヶ月かけて書き上げました。正式な出版はしませんでしたが、文庫本にすると800ページの大作です。その力作を、私にもプレゼントしてくれました。私は、それを佐藤安武氏の遺作として、大事に保管しています。

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2007年9月11日 (火)

「マーキュリー通信」no.716【私を育ててくれた元上司達-14「一橋大学田内幸一教授」】

200798000002    田内幸一先生は、一橋大学マーケティングゼミの先生で3~4年生の時にお世話になりました。マーケティング学会では、学習院田島義博教授、慶応村田昭治教授と並び、学会御三家といわれた学会の重鎮で、大店法制定にも大きな貢献をした方です。
 
 田内先生の講義はユーモアを交え受講生には人気の講座でした。その中で今でも記憶に残っている言葉として「認知的不協和」があります。
 「認知的不協和」とは、消費者は購買金額が大きければ大きいほど、商品購入後に不安に陥ってくる。消費者の商品購入後の行動として、自分の意思決定に間違いがなかったかを確かめたくなり、その行動を起こす。
 例えば、マイホームを購入後、同様のマンション、一戸建てのチラシを見て、自分の判断は間違っていないかを確認したがる。従って、販売側は、その不安をぬぐう努力が重要という理論です。
 この理論は今でも通用するマーケティング理論です。100円ショップで購入した商品には認知的不協和は起こらないけれど、高額商品を購入すると自分の判断が正しかったか消費者は確かめたくなります。

 田内ゼミでは、私は、「消費者行動の分析及びそのコンピューターシミュレーション」という卒論を書きました。"Consumers behavior and its computer simulation"という洋書を基に、消費者の行動を衝動買いも含めコンピューターシミュレーションを行いました。毎日電算室に入り浸り、富士通Facom 23025という汎用コンピュータを独り占めしていました。プログラム言語はFortranでした。

 卒業に際し、田内先生から、「これからは人の時代、機械は廃棄処分しない限り変われない。しかし、人はいつでも変わることができる。だからこれからは人を中心とした企業に勤めると良い」というアドバイスを戴きました。
 もともと総合商社希望だった私は、この一言がだめ押しとなり、三井物産が第一志望となりました。

 あれから40年近く経ち、現代はまさに知の時代、田内先生のアドバイスは当たっています。しかし、人間は歳を取ると頑固になり、変わることができなくなります。機械は不要となれば除却処分できるけれど、人間は使い物にならなくても廃棄処分できません。

 さて、田内先生とのお付き合いは、一橋大学を卒業してからの方が多くなりました。私が23年前にカナダから帰国した際に、田内ゼミのOBで勉強会を開こうと提案しました。 以来毎月1回「田内ゼミ情報交遊会」の名称で私が世話役となり10年100回以上に亘り続きました。先生も毎月生徒からレクチャーを聴くのが楽しみでほぼ毎月参加されていました。
 時々先生を囲んで旅行にも出かけました。100回目の時は、韓国に記念旅行に出かけました。しかし、その後、田内先生は、終戦直後の衛生状態が悪いときのC型肝炎のウィルスが潜伏して、それが素で他界されました。
 最後、病院に電話をしたときに、先生は、「菅谷君、苦しいよ」とひと言かすれた声を発せられたのが最期でした。

 田内先生は、マーケティングゼミの後継者として私に継いでもらいたいような話を他のゼミテンから聞いたことがあります。学生時代の私はまじめで学究肌タイプの学生でした。もし、先生が強く薦めていたら、ひょっとしたら私は一橋大学のマーケティングの教授に今頃はなっていたかもしれません。

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2007年1月15日 (月)

「マーキュリー通信」no.549【私を育ててくれた元上司達-13「三井物産元常務清水英邦氏」】

 清水英邦さんは、私が石炭部に在籍の頃、石炭部長だったので、仲人をして頂き、それなりに縁の深い方でした。
 但し、私は一番下のぺいぺいでしたので、直接話すことは余りありませんでした。
 
 石炭部長は、接待も重要業務の1つですが、酒は一切飲めず、その代わりG(golf)とM(麻雀)は一流の腕を持ったGM(General Manager)でした。
 お客様は、新日鐵、日本鋼管(現在のJFEスチール)等高炉大手6社ですが、その幹部クラスの接待にはさぞ気苦労が多かったことと思いますが、その気苦労を微塵も見せず、やってのけるところが清水さんの凄いところでした。

 私がカナダ三井物産カルガリー出張所に勤務の頃、清水さんの気遣いの凄さが発揮されました。25年ほど前のことです。
 当時日本鋼管は、カナダ炭の主幹事会社で、同社のN専務はその担当役員で、三井物産にとっては最重要人物でした。N専務は大の麻雀好きでした。清水さんは、N専務に同行して、東のトロントから、西のアルバータ州都エドモントンまで移動した時のことでした。
 エドモントンのホテルに到着したら直ちにN専務が麻雀をやりたいと言い始めました。ところが、商社間の引き継ぎが悪く、エドモントンのホテルに麻雀のセットがありません。私はカルガリーから飛行機でエドモントンまで出張でN専務以下を出迎えました。N専務の付き人N部長が烈火の如く怒りました。その怒りは穴澤所長と私に向けられました。

 その時、清水部長が機転を働かせました。当時清水さんの息子さんが偶々バンクーバーのJTBに勤務していました。清水さんは、息子さんに電話をして、「大至急麻雀のパイとゴムマットを持って、エドモントンまで飛んでこい」と指示しました。バンクーバーとエドモントンの距離は、丁度東京-札幌間くらいです。息子さんは飛行機に飛び乗って、麻雀のパイとゴムマットを持ってエドモントンのホテルまで駆けつけました。そして、事なきを得ることができました。

 その時、商社の仕事の泥臭い一面を見ました。そして、営業の仕事は、単に知識だけでなく、このような目に見えないちょっとしたことで、人間関係を作り、ビジネスに繋げていくのだということを身をもって体験しきました。清水さんのとっさの判断と、機転の良さを、偶々居合わせた現地で範を垂れて頂きました。そのお陰で、誰もできないような貴重な体験をすることができました。
<コーヒーブレイク>
(現地で体で覚えた英会話)
その1: 当時、カルガリー出張所の入居しているビルの1階に銀行がありました。そこのteller(銀行窓口嬢)に必要書類を渡して、事務所に戻ろうとすると、"I"ll be right with you"という言葉が返ってきました。「直ちに伺います」という意味ですが、実に日常会話らしい表現で、学校英語では絶対習わない言い回しです。
その2:私のナップザックの中から、中の染料が滲んできた時のことです。相手のカナダ人が、"The dye came out"という表現を使いました。
 又、かさぶたがはがれた時、"It comes off"という表現を使いました。こういうcomeの活きた使用方法、こういう使い方は学校英語で学びません。

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2007年1月12日 (金)

「マーキュリー通信」no.546【私を育ててくれた元上司達-12「三井物産元石炭部次長加藤晴生氏」】

 boblog「マーキュリー通信」のシリーズモノの中で、「私を育ててくれた元上司達」が好きだという読者も結構います。人生の途上で様々な上司との関わり合いがあります。そして、現在の自分があるのも過去の上司の恩恵に預かっています。そのことは長い時間の経過の中で、気付かされることも多々あります。そして、その時、昔の上司に対する感謝の思いが湧いてきます。
 読者の方から、その辺を自分の上司に置き換えたりしながら見ることができるからだと言われたことがあります。なるほどその通りですね。

 さて、「私を育ててくれた元上司達」を発信するのは、昨年の7月以来半年ぶりとなります。その間、他のシリーズ物、様々な事件、出来事が発生し、「私を育ててくれた元上司達」を書く機会を失い、あっという間に半年が経ってしまいました。

 今回は、私が国内の鉄鋼営業から、原料部門異動の希望が叶い、石炭部に異動した時の上司加藤晴生氏です。
 石炭部に異動したのは、私が三井物産入社7年目の29歳、昭和53年6月でした。当時国内の石炭産業は斜陽産業でしたが、豪州、米国、カナダ等から石炭を輸入し、石炭部は鉄鋼部門の中でも安定した収益を確保していました。

 国内の鉄鋼営業と異なり、石炭の営業は膨大な知識を必要とします。私は当時入社7年目で、物産マンとしては油が乗り始めた頃ですが、石炭部ではゼロからスタートです。当然石炭部の若手と比べ、知識の量の蓄積が雲泥の差です。
 私自身深夜まで残り、仕事をしながら、貪欲に知識を吸収しました。しかし、他の若手部員と比べ知識不足は歴然としていて、私自身かなり劣等感にさいなまれました。

 そんな中、かばってくれたのが当時直属の上司、加藤晴生氏でした。「菅谷はバイタリティがあり、国内営業で鍛えた営業力がある」とかばい続けてくれました。

 そして、早くも翌年昭和54年9月には加藤さんの後押しもあり、初めてカナダに出張することができました。

 そのお陰で、その翌年6月には北米研修員、そして同年12月末にはカナダ三井物産カルガリー出張所転勤と、石炭部の中では短期間で理想的な経験を積むことができました。
 物産マン時代多数の上司に仕えましたが、加藤さんは何でも話せる兄貴分のような存在の方でした。物産マンとして海外で経験を積み、実力アップできたのも、加藤さんの支援の賜と今でも感謝しています。

 加藤さんとはたくさんの思い出やエピソードがありますが、その中で私は大ちょんぼを犯しました。カナダのシッパーとの英文契約書を作成した時のことでした。私のミスで、一部間違いがあり、それが契約調印の直前に判り、加藤さんに赤恥をかかせたことです。加藤さんは、その時泣いて悔しがりました。その姿を見て、私は深く反省しました。
 それ以降、契約書等重要なことになればなるほど、自分以外の人にチェックを入れさせ、ミスを無くすことを肝に銘じました。人のやることにミスはつきもの、契約書を何度もチェックしても、自分だけでやると思いこみ、思い過ごしでミスが発見できないことがよくあります。その時の失敗で、私は生きた教訓を得ました。その教訓は現在でも生きています。
 
 10年程前、加藤さんが三井物産エアロスペースの常務として出向していた頃、同社のヘリコプターの絵が印刷されたタイタックを記念に頂きました。今でも加藤さんに感謝しつつそれを大事に使っています。本日もそのタイタックをネクタイに付けています。

 加藤さんとは、現在でも親しくお付き合いをさせて頂いております。現在は、早稲田大学グリークラブの経験を活かし、ラトビア音楽協会の会長を務められていますが、その情熱は昔と変わらないようです。

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2006年7月22日 (土)

「マーキュリー通信」no.432【私を育ててくれた元上司達-11「都立神代高校横田賀太郎教諭」】

 私は中学校までは国語は得意科目でした。小学校1年生から通信簿はずっと5でした。
 しかし、高校に進学してから、現代国語は読解力を要求されるために、○×式教育の問題点が如実に現れ、現代国語が不得意科目になってしまいました。これでは一橋大学の合格もおぼつきませんでした。
 
 現代国語の読解力を付けるために、国語の授業で評判の高かった横田賀太郎先生を訪ねました。横田先生とはそれまで面識がありませんでした。
 私は横田先生に、「国語の読解力を付けるために、朝日新聞の社説を読んで、どのように読んだかを書いて、先生に添削して欲しい」旨お願いしました。横田先生は、私のお願いを快諾してくれました。
 
 それから毎日放課後私は朝日新聞の社説を読んで、どのように読んだかを書いて先生に提出しました。毎日先生には赤ペンで直して頂きました。これを半年以上続けたお陰で、私の読解力はかなり向上しました。
 私の図々しい申し出を受けて頂いた横田先生には今でも感謝しています。

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