その時人生が動いた

2019年3月 6日 (水)

「マーキュリー通信」no.3658【その時人生が動いた-33「都立立川高校受験失敗」】

私は高校受験に失敗しました。
当時、三多摩で最難関だった都立立川高校の受験を担任の先生から勧められ、受けることにし
ました。
周りでは、「菅谷なら大丈夫だ」と太鼓判を押されました。
そのおだてに乗り、殆ど受験勉強をしませんでした。
当時は東京オリンピックとビートルズ旋風が吹き荒れていた年でした。
私はビートルズに夢中になり、受験勉強どころではありませんでした。
この受験失敗が元来負けず嫌いの私に火をつけました。
大学受験では絶対失敗しないぞと固く誓い、高校2年生から2年間大学受験に集中しました。
その結果、一橋大学商学部に現役合格できました。
この時の成功パターン、目標を定め、それに向かって全力投球することが私の成功の方程式と
なりました。
今では、高校受験に失敗して良かったと思っています。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月29日 (月)

「マーキュリー通信」no.3571【その時人生が動いた-32「母校神代高校で初の試み」】

先日母校神代高校卒業50周年の記念同期会に参加したときに、担任の矢野先生のことが話題となりました。

当時の神代高校は、3年生になると文化系クラス(6クラス)と理科系クラス(2クラス)に分か

れていました。

しかし、文化系クラスは就職する子も多く、3年の授業は落ち着いて受験勉強をする雰囲気では

ありませんでした。

そこで、1年生の時から親しくしていた生物の矢野先生に、「国公立、早慶等有名私立受験クラ

スを創ってください。」と直訴しました。そして、担任は矢野先生に是非なって欲しいことも

併せ嘆願しました。

先生はこの申し出を快諾していただきました。

そして、神代高校史上初めて国公立、早慶等有名私立受験クラスが誕生しました。

矢野先生のお陰で受験勉強に集中することができました。
そして、私も第一志望校の一橋大学商学部を現役合格できました。

私の狙い通りその年は早慶等有名私立大学の現役合格者が大量に輩出されました。

自分が真にそう思うなら「当たって砕けろ」の精神をその時に経験しました。

矢野先生はその後、都立忠生高校の校長に栄転されました。

転校されてからも矢野先生とは親交が続きました。

ある時、矢野先生の奥様から先生が逝去された旨の電話が入りました。「生前、主人が菅谷君

に会いたいと常々申しておりました」とのことでした。

そして、お通夜の場で先生に対する感謝の思いを伝えさせていただきました。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月23日 (金)

「マーキュリー通信」no.3228【その時人生が動いた-31「本日は㈱もしもしホットライ ン創業30周年」】

本日はもしもしホットライン(現在のりらいあコミュニケーションズ)創業30周年の日

です。

三井物産の鉄鋼部門から情報産業部門に異動して、初の大仕事でした。丁度電電公社が

民営化され、NTTになった頃でした。そして、通信市場の自由化の幕開けの時でした。

その前の1980年末にカナダ(カルガリー出張所)に転勤したときにカルチャーショック

を受けました。

当時の日本は電電公社の時代で、電話を申し込んでから開通まで1ヶ月もかかっていまし

た。

それがカルガリーの電話局に電話の申込みをすると、開通が何と翌日のことにびっくり

しました。

通話料金も日本の10分の1程度でした。更に、通信市場は自由化されていたので、人々は

2台目からはショッピングセンターで購入していました。
各部屋にはモジュラージャックがあったので、それに差し込めば直ぐに使えます。

当時の日本はダイヤル式の黒電話を玄関に1台置いていた時代でした。
日本の通信市場は10年遅れていました。

当時フリーダイヤルを使ったカスタマーセンターが流行出しました。

カナダでは通話料無料ののトールフリーサービスが流行っていました。
そんな経験をした後だっただけに、私はテレマーケティングの新会社もしもしホットラ

インは通信の自由化の波に乗って成功すると確信していました。

株式会社もしもしホットラインの創業、そしてその後同社に出向し営業担当役員の経験

は私の人生に大きな影響を与えました。
丁度その10年後に25年勤務した三井物産を退職することになります。

私の知らない能力が大きく開花した時期でもあり、私が社会人人生で一番輝いていた時

期でした。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 2日 (金)

「マーキュリー通信」no.3213【その時人生が動いた-30「三井物産を退職してまる20年 経ちました。」】

5月31日に三井物産を退職して丁度20年経ちました。
世の中も私にとっても激動の20周年でした。

しかし、激動の中でも変わらないモノ、それは「自分自身に忠実な生き方をする、正直

に生きる」でしたが、その一番大切な部分は維持していることです。

これがなければ何のために三井物産を辞めたのか分かりません。
もちろん、三井物産は好きだし、三井物産に勤務した25年間は、私自身を徹底的に鍛え

て頂き、現在の自分があるのは三井物産のお陰と大変感謝しています。

又、手に入れたものは「組織からの自由」です。24時間全て自分の自由になる。お金や

地位、名誉に振り回されずに「自分自身に忠実な生き方をする、正直に生きる」です。

そして、行動哲学である「活私豊幸」=「自分を活かしながら人生の途上で出会った人

々をいかに豊かに幸福にできる人間でありたい」 が実践できているかです。

1日を振り返り、1日の大半を他人のことを思って生きてきたかが反省の重要ポイントと

なります。

更に、自分自身の強みとして、大企業的思考方法と中小企業、ベンチャー企業的思考方

法の両方を体得したことです。

これが現在の中小・ベンチャー企業経営コンサルタントに活かされています。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月17日 (日)

「マーキュリー通信」no.3001【その時人生が動いた-29「今から丁度50年前、自分の人 生を大きく変えた出来事」】

私の幼少期は波瀾万丈のスタートでした。

裕福な瀬戸物商の長男として目黒区祐天寺で生まれました。
しかし、その直ぐ後に、父は株で騙され、家業は倒産し、貧乏のどん底へ落ちました。

その結果、家を売り払い、母の実家、調布に引越し、6畳一間で暮らしました。
私は1歳の時に、はしかにかかり、治療費を払えない貧乏な我が家では命は助からない

と言われていました。

しかし、祖父が治療費を出してくれることになり、九死に一生を得ました。

父は倒産のショックから立ち直れず、仕事をしませんでした。その影響で母は、金策に

走り回り、私が5歳の時に過労で病死しました。

母の病死にショックを受けた父は、その翌年、1つ年下の妹と私の二人を残し、家出し

てしまいました。

実家が調布で町の自転車屋を営んでいたので、そちらに二人は引き取られました。幸か

不幸か伯父さん夫婦には子供がいませんでした。当然私は自転車屋の家業を継ぐことに

なっていました。

しかし、父が家出中だった為、養子にはまだなっていませんでした。

さて、10年後の今から丁度50年前の本日、私が高校2年生の時に、父は家出から突然姿を

現しました。

その時の父の容姿は、ブルーカラーで日焼けしており、アルコールが少し入っていたせ

いか若干赤ら顔でした。

その間の10年間私と妹を育ててくれた母親代わりの祖母が私に聞きました。
「ノブオ、今後どうする?」
私は、「血が繋がっているので一緒に住まざるを得ないよ」と応えました。

その結果、私が自転車屋の家業を継ぐ選択肢はなくなりました。

その時私は父親のみすぼらしい姿を見て、「絶対に父親みたいにはなりたくない!」と

心に誓いました。

私は父を憎んだことは一度もありませんでしたが、父親は私にとり反面教師でした。

当時を振り返ると、父は自分の弱さに負けてしまったのだと思います。

しかし、父親のような弱い人間だと、結局周りに迷惑をかけることになる。だから、自

分自身努力精進し続けなければならない。それを怠ると父のような人間となってしまう

という恐怖心が心の奥底にあるのだと思います。

父は今月で93歳、後妻と一緒に八王子のマンションで老後の生活を過ごしています。
父は、以前「おまえの面倒は受けない」と言っていましたが、介護老人にもならず、私

に言ったとおり、周りに迷惑をかけず、最晩年を静かに生きています。

父が50年前に家出から戻ってきたことで、私の人生が大転換することになりました。
今振り返ってみると、父との関係の中で現在の私があるのだと父には感謝しています。

私の人生を振り返ると、幼少期も含め、現在に至るまで極めて運の強い人間だと思って

います。

その意味で世間に感謝し、私自身はこれまで人生で受けてきた数多くの恩を世の中にお

返しする番だと思っています。私のこれまでの経験を世間の役に立つ方向で恩返しした

い、「報恩の人生を送りたい」と思い、日々活動しています。

◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆

前号のメルマガで入力ミスがありました。

最後の行に、「今後も○○のメルマガのご支援よろしくお願い申し上げます。」と記述

してありましたが、ご不快の念を抱かせたことをお詫びいたします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月 1日 (日)

「マーキュリー通信」no.2415【そのとき人生が動いた-28「自分の思いと行いが人生 を変える」】

週末、20代の頃に参加していた英語劇グルッペの仲間と一緒に御殿場の時の栖に行って
きました。
三井物産に入社して、海外駐在するためには、英語の社会資格でILC(International
Language Center)のグレード5をとることが必要でした。
そのため、私はILCの英会話学校に入りました。
そこで出会ったのが英語劇グルッペを行っている鴇田政雄氏でした。英語劇に参加すれ
ば、英会話ができるようになるだろうと思い、喜んで参加しました。25歳の時でした。
この時の思いと行いが私の人生を大きく変えました。
三井物産以外に仕事を離れた仲間が多数できました。
私が英語劇に参加したのは、カナダに駐在するまでの5年間でした。
英語劇グルッペでは、英語劇以外に、冬は大型バスを1台チャーターして栂池スキーツ
アー、夏は民宿井出荘でテニストーナメントを行い、多くの男女が集いました。
あれから40年がたち、大半の仲間は結婚し、家族を持つようになりました。
若いときに同じ釜飯を食った仲間として、夫婦同士でのつきあいをしています。仕事を
離れ、利害関係のないこういう仲間を大切にしています。
◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
スキーツアーやテニストーナメントに三井物産の社員を中心として、多数の若い男女を
誘いました。英語劇グルッペの夫婦は、私を縁として誕生したカップルが半数います。
その意味で、私はグルッペの仲間に大きな影響を与えているといえます。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月19日 (日)

boblog「マーキュリー通信」no.1091

Dsc00095    
私の幼少期の頃は、波瀾万丈の人生でした。

 母親が悪性貧血の為、私が5歳の時に他界しました。
 父は母の死にショックを受け、その翌年、私が小学校1年生の時に、1つ年下の妹と私を置いて、ある日突然家出をしてしまいました。
 危うくホームレス小学生になるところでしたが、幸い母の実家に祖母と伯父夫婦がいたので、そちらで引き取られました。
 伯父夫婦には子供がいなかったので、子供のようにして育てられました。但し、商売(自転車業)を営んでいたので、祖母が母親代わりに育ててくれました。

 父は、10年後に戻ってくるのですが、その間の10年間は私にとって、人生で一番平穏無事な時代でした。伯父夫婦がいなければ、孤児院に預けられていたので、伯父夫婦と祖母に対する感謝の念は生涯忘れません。
 
 10年後、私が高校2年生の時に戻ってきた父は、日焼けした労務者の恰好で多少酒気を帯びていました。
 羽振りの良い姿で帰れたら良かったのですが、日雇い労働者で、所持金も殆ど無く、肩身が狭かったのでしょう。我が子には会いたいけれど、まともに顔を見ることができないので、酒の強くない父が、敢えて酒を飲んでいたのだと思います。当時の光景を今でもはっきり覚えています。

 10年間、子供を捨てた父を恨んだことはありませんが、その時私は、「父親のような人間には絶対なりたくない」と強く思いました。
 そして、一生懸命勉強して、将来立派な人間になるのだと心に誓いました。その頃、丁度、「資源の乏しい日本は貿易立国が必須。だから自分は世界を股にかける国際ビジネスマンとして、日本の為に役に立とう。その為に貿易商社に入ろう」と決めていました。そして、一橋大学商学部を受験しようと決めたのもこの頃でした。
 
 父の家出は、私自身に大きな影響を与えました。幼少期に両親を失った私は、幼少期から、人に頼らず、独立心旺盛な子供に自然と育っていました。

 小学生の頃から、お世話になっている実家の為に、風呂を沸かす仕事を始め家事を手伝いました。当時は石炭風呂で、風呂を沸かす為に、木をのこぎりで切り、斧となたで薪を作りました。

 中学1年生からは日本通運のアルバイトを始めました。大学を卒業するまでの10年間で、日通の仕事は宅配便を始め、倉庫の仕事、引っ越しの手伝い、他には米屋の餅つき、家庭教師、市場調査等かなり多くのアルバイトをやり、お金を稼ぎました。
 そのお陰で、子供の頃から自分で金を稼ぐという金銭感覚と自立心が自然と養われました。

 ◇◆◇◆編集後記◇◆◇◆
 チーターの狩りはメスの仕事だそうです。メスは、子供の為に必死に獲物を探しに行くので、メスの狩りの能力は抜群だそうです。
 一方、オスは、メスが捕ってきた獲物の残りを子供の頃は食べているので、狩りに余り熱心ではありません。
 メス親から独立すると、オスは複数(3匹前後)で行動し、兄弟が力を合わせて、食べ物を探しに行きます。狩りに行くというより、小動物を探しに行くといった感じです。

 チーターの世界でもそうなんですから、人間にも同じ事が言えます。つまり、子供の頃から甘やかされて育てられると、自立心、独立心がなかなか育たず、依存心が強いまま成長していきます。

 その意味で、独立心の極めて強い私は、今では父親に感謝しています。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月31日 (火)

【boblog「マーキュリー通信」】vol.1082  【その時人生が動いた-26「霊的人生のスタート」】

今から丁度20年前の今日、1989年4月1日は私の人生が大きく転換した日でした。

 それまでの私は、一生懸命努力して、三井物産で出世し、将来は三井物産の社長になるくらいの気持ちで頑張っていました。人は財産と考え、異業種交流会にも多数参加しました。多くの良い仲間を作り、人生を謳歌したいと考えていました。

 しかし、霊的人生観に出会い、それまでの私は非常に自己中心的な自分だと気づきました。他人がよく見えていませんでした。
 自分中心に世の中が回っているという「天動説」から、世の中の為に自分がある、自分が生かされているという「自動説」に180度変わりました。まさにコペルニクス的発想の転換でした。

 その時以来私の行動哲学、人生哲学が、「活私豊幸」=「自分を活かしながら人生の途上で出会った人々をいかに豊かに幸福にできる人間でありたい」 というものとなり、それが現在まで続いています。

 霊的人生観とは、人間の本質は霊であると認識することです。あの世という実在の世界から、この世という仮の世界に肉体に魂が宿り、修行にやってくるという見方です。人生の目的は、自分の魂を磨く為です。人生の途上には、様々な困難、挫折、事件事故に出会いますが、それらは全て自分の魂を磨く為に存在するという見方です。

 このような見方をすると、何の為の人生かを良く理解できます。そして、人生の目的も理解できます。本当の自分も発見できました。人間の魂は永遠に不滅だということが分かります。
 当然死生観も変わってきます。そろそろ死を考える年代となってきましたが、死後の世界があることを知ると、死に対する恐怖感もなくなります。それよりも自分の人生を生ききり、私の人生哲学である「活私豊幸」を全うできた時には、それは素晴らしい天国が待っています。従って、死は恐怖でなく、だんだん期待に変わってきています。
 時代はどんどん進歩しています。もともと数学が一番大好きで得意な私でしたが、ゼネラリストの道を選んだ私には、残念ながら今の科学の進歩や、ITにはついていけません。 従って、又生まれ変わって、今度は科学者や技術者の道を歩んでもいいと思っています。

 さて、そんな霊的人生観に大転換できたのは、幸福の科学の大川隆法師の教えに触れることができたからでした。あれから20年、大川隆法師の書籍は500冊以上読み、テープ、CD、DVDも同様に聴いたりしてきました。
 これだけ珠玉の名著に数多く接すると、物事の正しい判断力、人間力、心の浄化、仕事力、考える力等自分自身の魂の向上に大きく役だっています。あれから丁度20年、継続と蓄積の大きさを感じています。

 20年前、幸福の科学は、西荻の1室にある小さな学習団体でしたが、現在では国内外に約100箇所も自前の精舎(修行施設他)を持ち、来年は那須に幸福の科学学園として中学、高校を開設する日本でも有数の宗教団体に成長し、現在も日本で一番の急成長中の宗教団体となりました。

 もちろん私自身も宗教団体に対するイメージも幸福の科学のお陰で180度変わりました。それまでの私は、宗教は、心や身体の弱い人が入る所と思っていました。しかし、幸福の科学では、「霊的人生観に基づき、自分の魂を磨きながら、一切の衆生の魂の救済を行う」ことで、「この世とあの世を貫く幸福を獲得する」ことだと気付かされました。
http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/

─────────────────────────────────────
編集後記
3年前、幸福の科学の日光精舎で八正道上級セミナーを3泊4日で受けました。受講後、丁度湯上がりで体がさっぱりとするように、心の中の塵や垢がとれ、ぴかぴかの状態になりました。
 これが仏教でいう涅槃寂静の世界なのだと悟りました。しかし、残念ながら、この状態は1週間程度しか続かず、又、元の状態の戻ってしまいました。
 しかし、涅槃寂静の心の状態は無理としても、絶えず心の状態を平静を保つようにしています。心の湖面を波立たないように努めています。この状態を保つことがメンタルヘルス上今の私にとって非常に重要となっています。
Kif_0432 ─────────────────────────────────────

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

boblog「マーキュリー通信」no.1057【その時人生が動いた-25「1歳の時に家業が倒産」】

私は目黒区祐天寺で生まれました。生まれた時の菅谷家は裕福で、家業は瀬戸物の卸業を営んでいました。

 しかし、私が1歳の時に、父が株で騙され、家業は倒産してしまいました。一家は、母の実家のある調布に引っ越してきました。
 実家の土地の一部に6畳一間の一戸建てを建てました。家族は、翌年生まれた妹も含め、6畳一間に一家4人が住んでいました。

 父は倒産のショックから、仕事のやる気が失せ、毎日競輪新聞とにらめっこ。仕事をやろうとしませんでした。当然、台所は火の車でした。

 この事件が私のその後の人生観に大きな影響を与えています。

 私の性格も父に似て、お人好しで人に騙されやすいタイプです。そこで、年取ってから致命的な失敗をしない為に、「若い中に失敗は積極的に経験し、自らの肥やしとすること」という人生観ができあがりました。

 私自身、好奇心旺盛で、チャレンジング精神旺盛なタイプだったこともあり、数多くの事に挑戦してきました。そして、数多くの失敗もしました。しかし、失敗は自分が成長する肥やしと思っていたので、失敗を通じ、大きく成長することができました。

 父親の、家業倒産を見ていた実家の伯父さんは、安定した生活の為に、私に調布市役所勤務を勧めました。叔父さんのコネで調布市役所に勤務することはできましたが、もしそうしていたら私の人生は、随分変わっていたことになったことでしょう。
 もちろん、調布市役所勤務となっていたら、私の性格上、後悔の人生となっていた事と思います。

─────────────────────────────────────
編集後記
 本日NHKで特集「今後の雇用対策」に関し、市民が参加した討論会が行われました。
 一橋大学の先輩、キッコーマン副会長茂木賢三郎氏も自ら参加されるとのメールを戴いたので、私も視聴しました。

 討論会を見ていて一番感じたのは、皆自分の意見を主張してばかりで、相手の主張に耳を傾けようとしないので、議論が噛み合わないことでした。その点、茂木さんは甲論乙駁の両者の異見をよく聴きながら、雇用対策に関する持論を展開されていました。

 私の考えは、基本的には自立、自己責任原則を貫くべきです。但し、社会的弱者を救済する仕組み、受け皿は残しておくべきです。従って、派遣労働は原則自由にすべきで、企業の法令違反は厳しく取り締まるべきです。

 一方、政府の役割として、年収200万円以下の人でも安心して暮らせる社会にしていくことが肝要です。
 一番高い住宅コストを、低所得者でも、都内で6畳一間を月3万円程度で借りることができるようにしていけば、何とか生活できます。

 私など、幼少の頃、貧乏生活をしていたので、貧乏から脱出する為に一生懸命勉強し、一生懸命働いてきました。その癖が今でもついているので、生涯勉強、仕事と思い、自立、自己責任の考えの下に生きているので、将来に不安は特に感じていません。
 
─────────────────────────────────────

| | | コメント (1) | トラックバック (3)

2009年1月28日 (水)

boblog「マーキュリー通信」no.1053【その時人生が動いた-24「霊の存在を知る】

カナダ駐在の時に、妻が原因不明の病気で具合が悪くなりました。妻の病気を治す為に、医者のはしご、そして様々な民間治療を受けました。

 そんな中、三井物産OBの奥様から手かざしで病気が治るという新興宗教を紹介されました。私自身、新興宗教に関しては、病気治しや精神的に弱い人が行くところというふうに思っていたので、余り良いイメージは持っていませんでした。

 しかし、妻の病気を治す為に、その新興宗教に入ってみました。
 さて、その新興宗教では、信者同士がお互いに手を伸ばして、お互いに手かざしをやっています。すると、今までおとなしかった信者達が突然暴れ始めました。

 ある若い男性の信者は、床をのたうち回りました。又、別の主婦の信者は、それまでおとなしかったのが、突然、「おまえを呪ってやる!殺してやる!」と絶叫し始めました。
 この宗教では、この現象を清浄化と呼び、ありがたがっていました。

 実は、この清浄化現象は、後々悪霊の仕業であることが分かりました。それをこの宗教では御利益があるとありがたがっていたわけです。お互いに信者同士悪霊のとばしっこをしてありがたがっていたわけです。

 この新興宗教には1年ほどいましたが、悪霊であることが分かったので、退会を申し出たところ、そこの道場主から「あなたは地獄に堕ちる」と脅かされました。
 信者が辞めようとすると、「地獄に堕ちる」と脅かすのが、邪教の典型的な例ですが、この新興宗教もそうでした。

 しかし、この新興宗教に入ったお陰で、私自身霊の存在を知ることができました。そのことがその後私の人生を変えるとは、その時まだ気がついていませんでした。

 尚、妻の病気は、後に自律神経失調症と分かりました。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

1ポイントアップの開運力 Bob Sugayaのワンポイントアップの英語術 「もしも龍馬がベンチャー起業家だったら」 「感謝力10倍アップの極意」 その時人生が動いた クリエイティブに生きる シニアとシングルマザー、ファーザーが協生するシェアハウス「ユートピア館」 スポーツ マーキュリー物産/仕事、ビジネス ユートピア社会の建設を目指す! ワンポイントアップのコミュニケーション力 ワンポイントアップのプレゼン力 ワンポイントアップの人間力 ワンポイントアップの仕事術 ワンポイントアップの営業力 ワンポイントアップの幸福力 ワンポイントアップの思考力 ワンポイントアップの経営術 人生100年時代をぴんぴんころりで楽しく生きる法 人生に勝利する方程式 人生の新発見 人生・その他 奇人変人が世の中を変えていく 富、無限大コンサルタントの道を目指して 幸福になれない症候群 日カツ! 日本人の精神的荒廃を考える 日記 日記・コラム・つぶやき 映画・テレビ 書籍・雑誌 生涯現役社会が日本を救う 知らぬが佛と知ってるが佛 破邪顕正(はじゃ-けんしょう)の勇気を持つ 私のヒューマンネットワーキング 私を育ててくれた元上司達 空き家1千万戸時代に チャレンジする 経営 経済・政治・国際 耐震防災 自分の健康は自分で守る 誕生日に思う 趣味 音楽 龍馬の如く生きる