その時人生が動いた

2016年7月17日 (日)

「マーキュリー通信」no.3001【その時人生が動いた-29「今から丁度50年前、自分の人 生を大きく変えた出来事」】

私の幼少期は波瀾万丈のスタートでした。

裕福な瀬戸物商の長男として目黒区祐天寺で生まれました。
しかし、その直ぐ後に、父は株で騙され、家業は倒産し、貧乏のどん底へ落ちました。

その結果、家を売り払い、母の実家、調布に引越し、6畳一間で暮らしました。
私は1歳の時に、はしかにかかり、治療費を払えない貧乏な我が家では命は助からない

と言われていました。

しかし、祖父が治療費を出してくれることになり、九死に一生を得ました。

父は倒産のショックから立ち直れず、仕事をしませんでした。その影響で母は、金策に

走り回り、私が5歳の時に過労で病死しました。

母の病死にショックを受けた父は、その翌年、1つ年下の妹と私の二人を残し、家出し

てしまいました。

実家が調布で町の自転車屋を営んでいたので、そちらに二人は引き取られました。幸か

不幸か伯父さん夫婦には子供がいませんでした。当然私は自転車屋の家業を継ぐことに

なっていました。

しかし、父が家出中だった為、養子にはまだなっていませんでした。

さて、10年後の今から丁度50年前の本日、私が高校2年生の時に、父は家出から突然姿を

現しました。

その時の父の容姿は、ブルーカラーで日焼けしており、アルコールが少し入っていたせ

いか若干赤ら顔でした。

その間の10年間私と妹を育ててくれた母親代わりの祖母が私に聞きました。
「ノブオ、今後どうする?」
私は、「血が繋がっているので一緒に住まざるを得ないよ」と応えました。

その結果、私が自転車屋の家業を継ぐ選択肢はなくなりました。

その時私は父親のみすぼらしい姿を見て、「絶対に父親みたいにはなりたくない!」と

心に誓いました。

私は父を憎んだことは一度もありませんでしたが、父親は私にとり反面教師でした。

当時を振り返ると、父は自分の弱さに負けてしまったのだと思います。

しかし、父親のような弱い人間だと、結局周りに迷惑をかけることになる。だから、自

分自身努力精進し続けなければならない。それを怠ると父のような人間となってしまう

という恐怖心が心の奥底にあるのだと思います。

父は今月で93歳、後妻と一緒に八王子のマンションで老後の生活を過ごしています。
父は、以前「おまえの面倒は受けない」と言っていましたが、介護老人にもならず、私

に言ったとおり、周りに迷惑をかけず、最晩年を静かに生きています。

父が50年前に家出から戻ってきたことで、私の人生が大転換することになりました。
今振り返ってみると、父との関係の中で現在の私があるのだと父には感謝しています。

私の人生を振り返ると、幼少期も含め、現在に至るまで極めて運の強い人間だと思って

います。

その意味で世間に感謝し、私自身はこれまで人生で受けてきた数多くの恩を世の中にお

返しする番だと思っています。私のこれまでの経験を世間の役に立つ方向で恩返しした

い、「報恩の人生を送りたい」と思い、日々活動しています。

◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆

前号のメルマガで入力ミスがありました。

最後の行に、「今後も○○のメルマガのご支援よろしくお願い申し上げます。」と記述

してありましたが、ご不快の念を抱かせたことをお詫びいたします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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2014年6月 1日 (日)

「マーキュリー通信」no.2415【そのとき人生が動いた-28「自分の思いと行いが人生 を変える」】

週末、20代の頃に参加していた英語劇グルッペの仲間と一緒に御殿場の時の栖に行って
きました。
三井物産に入社して、海外駐在するためには、英語の社会資格でILC(International
Language Center)のグレード5をとることが必要でした。
そのため、私はILCの英会話学校に入りました。
そこで出会ったのが英語劇グルッペを行っている鴇田政雄氏でした。英語劇に参加すれ
ば、英会話ができるようになるだろうと思い、喜んで参加しました。25歳の時でした。
この時の思いと行いが私の人生を大きく変えました。
三井物産以外に仕事を離れた仲間が多数できました。
私が英語劇に参加したのは、カナダに駐在するまでの5年間でした。
英語劇グルッペでは、英語劇以外に、冬は大型バスを1台チャーターして栂池スキーツ
アー、夏は民宿井出荘でテニストーナメントを行い、多くの男女が集いました。
あれから40年がたち、大半の仲間は結婚し、家族を持つようになりました。
若いときに同じ釜飯を食った仲間として、夫婦同士でのつきあいをしています。仕事を
離れ、利害関係のないこういう仲間を大切にしています。
◆◆◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆◆◆◆
スキーツアーやテニストーナメントに三井物産の社員を中心として、多数の若い男女を
誘いました。英語劇グルッペの夫婦は、私を縁として誕生したカップルが半数います。
その意味で、私はグルッペの仲間に大きな影響を与えているといえます。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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2009年4月19日 (日)

boblog「マーキュリー通信」no.1091

Dsc00095    
私の幼少期の頃は、波瀾万丈の人生でした。

 母親が悪性貧血の為、私が5歳の時に他界しました。
 父は母の死にショックを受け、その翌年、私が小学校1年生の時に、1つ年下の妹と私を置いて、ある日突然家出をしてしまいました。
 危うくホームレス小学生になるところでしたが、幸い母の実家に祖母と伯父夫婦がいたので、そちらで引き取られました。
 伯父夫婦には子供がいなかったので、子供のようにして育てられました。但し、商売(自転車業)を営んでいたので、祖母が母親代わりに育ててくれました。

 父は、10年後に戻ってくるのですが、その間の10年間は私にとって、人生で一番平穏無事な時代でした。伯父夫婦がいなければ、孤児院に預けられていたので、伯父夫婦と祖母に対する感謝の念は生涯忘れません。
 
 10年後、私が高校2年生の時に戻ってきた父は、日焼けした労務者の恰好で多少酒気を帯びていました。
 羽振りの良い姿で帰れたら良かったのですが、日雇い労働者で、所持金も殆ど無く、肩身が狭かったのでしょう。我が子には会いたいけれど、まともに顔を見ることができないので、酒の強くない父が、敢えて酒を飲んでいたのだと思います。当時の光景を今でもはっきり覚えています。

 10年間、子供を捨てた父を恨んだことはありませんが、その時私は、「父親のような人間には絶対なりたくない」と強く思いました。
 そして、一生懸命勉強して、将来立派な人間になるのだと心に誓いました。その頃、丁度、「資源の乏しい日本は貿易立国が必須。だから自分は世界を股にかける国際ビジネスマンとして、日本の為に役に立とう。その為に貿易商社に入ろう」と決めていました。そして、一橋大学商学部を受験しようと決めたのもこの頃でした。
 
 父の家出は、私自身に大きな影響を与えました。幼少期に両親を失った私は、幼少期から、人に頼らず、独立心旺盛な子供に自然と育っていました。

 小学生の頃から、お世話になっている実家の為に、風呂を沸かす仕事を始め家事を手伝いました。当時は石炭風呂で、風呂を沸かす為に、木をのこぎりで切り、斧となたで薪を作りました。

 中学1年生からは日本通運のアルバイトを始めました。大学を卒業するまでの10年間で、日通の仕事は宅配便を始め、倉庫の仕事、引っ越しの手伝い、他には米屋の餅つき、家庭教師、市場調査等かなり多くのアルバイトをやり、お金を稼ぎました。
 そのお陰で、子供の頃から自分で金を稼ぐという金銭感覚と自立心が自然と養われました。

 ◇◆◇◆編集後記◇◆◇◆
 チーターの狩りはメスの仕事だそうです。メスは、子供の為に必死に獲物を探しに行くので、メスの狩りの能力は抜群だそうです。
 一方、オスは、メスが捕ってきた獲物の残りを子供の頃は食べているので、狩りに余り熱心ではありません。
 メス親から独立すると、オスは複数(3匹前後)で行動し、兄弟が力を合わせて、食べ物を探しに行きます。狩りに行くというより、小動物を探しに行くといった感じです。

 チーターの世界でもそうなんですから、人間にも同じ事が言えます。つまり、子供の頃から甘やかされて育てられると、自立心、独立心がなかなか育たず、依存心が強いまま成長していきます。

 その意味で、独立心の極めて強い私は、今では父親に感謝しています。

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2009年3月31日 (火)

【boblog「マーキュリー通信」】vol.1082  【その時人生が動いた-26「霊的人生のスタート」】

今から丁度20年前の今日、1989年4月1日は私の人生が大きく転換した日でした。

 それまでの私は、一生懸命努力して、三井物産で出世し、将来は三井物産の社長になるくらいの気持ちで頑張っていました。人は財産と考え、異業種交流会にも多数参加しました。多くの良い仲間を作り、人生を謳歌したいと考えていました。

 しかし、霊的人生観に出会い、それまでの私は非常に自己中心的な自分だと気づきました。他人がよく見えていませんでした。
 自分中心に世の中が回っているという「天動説」から、世の中の為に自分がある、自分が生かされているという「自動説」に180度変わりました。まさにコペルニクス的発想の転換でした。

 その時以来私の行動哲学、人生哲学が、「活私豊幸」=「自分を活かしながら人生の途上で出会った人々をいかに豊かに幸福にできる人間でありたい」 というものとなり、それが現在まで続いています。

 霊的人生観とは、人間の本質は霊であると認識することです。あの世という実在の世界から、この世という仮の世界に肉体に魂が宿り、修行にやってくるという見方です。人生の目的は、自分の魂を磨く為です。人生の途上には、様々な困難、挫折、事件事故に出会いますが、それらは全て自分の魂を磨く為に存在するという見方です。

 このような見方をすると、何の為の人生かを良く理解できます。そして、人生の目的も理解できます。本当の自分も発見できました。人間の魂は永遠に不滅だということが分かります。
 当然死生観も変わってきます。そろそろ死を考える年代となってきましたが、死後の世界があることを知ると、死に対する恐怖感もなくなります。それよりも自分の人生を生ききり、私の人生哲学である「活私豊幸」を全うできた時には、それは素晴らしい天国が待っています。従って、死は恐怖でなく、だんだん期待に変わってきています。
 時代はどんどん進歩しています。もともと数学が一番大好きで得意な私でしたが、ゼネラリストの道を選んだ私には、残念ながら今の科学の進歩や、ITにはついていけません。 従って、又生まれ変わって、今度は科学者や技術者の道を歩んでもいいと思っています。

 さて、そんな霊的人生観に大転換できたのは、幸福の科学の大川隆法師の教えに触れることができたからでした。あれから20年、大川隆法師の書籍は500冊以上読み、テープ、CD、DVDも同様に聴いたりしてきました。
 これだけ珠玉の名著に数多く接すると、物事の正しい判断力、人間力、心の浄化、仕事力、考える力等自分自身の魂の向上に大きく役だっています。あれから丁度20年、継続と蓄積の大きさを感じています。

 20年前、幸福の科学は、西荻の1室にある小さな学習団体でしたが、現在では国内外に約100箇所も自前の精舎(修行施設他)を持ち、来年は那須に幸福の科学学園として中学、高校を開設する日本でも有数の宗教団体に成長し、現在も日本で一番の急成長中の宗教団体となりました。

 もちろん私自身も宗教団体に対するイメージも幸福の科学のお陰で180度変わりました。それまでの私は、宗教は、心や身体の弱い人が入る所と思っていました。しかし、幸福の科学では、「霊的人生観に基づき、自分の魂を磨きながら、一切の衆生の魂の救済を行う」ことで、「この世とあの世を貫く幸福を獲得する」ことだと気付かされました。
http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/

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編集後記
3年前、幸福の科学の日光精舎で八正道上級セミナーを3泊4日で受けました。受講後、丁度湯上がりで体がさっぱりとするように、心の中の塵や垢がとれ、ぴかぴかの状態になりました。
 これが仏教でいう涅槃寂静の世界なのだと悟りました。しかし、残念ながら、この状態は1週間程度しか続かず、又、元の状態の戻ってしまいました。
 しかし、涅槃寂静の心の状態は無理としても、絶えず心の状態を平静を保つようにしています。心の湖面を波立たないように努めています。この状態を保つことがメンタルヘルス上今の私にとって非常に重要となっています。
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2009年2月 7日 (土)

boblog「マーキュリー通信」no.1057【その時人生が動いた-25「1歳の時に家業が倒産」】

私は目黒区祐天寺で生まれました。生まれた時の菅谷家は裕福で、家業は瀬戸物の卸業を営んでいました。

 しかし、私が1歳の時に、父が株で騙され、家業は倒産してしまいました。一家は、母の実家のある調布に引っ越してきました。
 実家の土地の一部に6畳一間の一戸建てを建てました。家族は、翌年生まれた妹も含め、6畳一間に一家4人が住んでいました。

 父は倒産のショックから、仕事のやる気が失せ、毎日競輪新聞とにらめっこ。仕事をやろうとしませんでした。当然、台所は火の車でした。

 この事件が私のその後の人生観に大きな影響を与えています。

 私の性格も父に似て、お人好しで人に騙されやすいタイプです。そこで、年取ってから致命的な失敗をしない為に、「若い中に失敗は積極的に経験し、自らの肥やしとすること」という人生観ができあがりました。

 私自身、好奇心旺盛で、チャレンジング精神旺盛なタイプだったこともあり、数多くの事に挑戦してきました。そして、数多くの失敗もしました。しかし、失敗は自分が成長する肥やしと思っていたので、失敗を通じ、大きく成長することができました。

 父親の、家業倒産を見ていた実家の伯父さんは、安定した生活の為に、私に調布市役所勤務を勧めました。叔父さんのコネで調布市役所に勤務することはできましたが、もしそうしていたら私の人生は、随分変わっていたことになったことでしょう。
 もちろん、調布市役所勤務となっていたら、私の性格上、後悔の人生となっていた事と思います。

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編集後記
 本日NHKで特集「今後の雇用対策」に関し、市民が参加した討論会が行われました。
 一橋大学の先輩、キッコーマン副会長茂木賢三郎氏も自ら参加されるとのメールを戴いたので、私も視聴しました。

 討論会を見ていて一番感じたのは、皆自分の意見を主張してばかりで、相手の主張に耳を傾けようとしないので、議論が噛み合わないことでした。その点、茂木さんは甲論乙駁の両者の異見をよく聴きながら、雇用対策に関する持論を展開されていました。

 私の考えは、基本的には自立、自己責任原則を貫くべきです。但し、社会的弱者を救済する仕組み、受け皿は残しておくべきです。従って、派遣労働は原則自由にすべきで、企業の法令違反は厳しく取り締まるべきです。

 一方、政府の役割として、年収200万円以下の人でも安心して暮らせる社会にしていくことが肝要です。
 一番高い住宅コストを、低所得者でも、都内で6畳一間を月3万円程度で借りることができるようにしていけば、何とか生活できます。

 私など、幼少の頃、貧乏生活をしていたので、貧乏から脱出する為に一生懸命勉強し、一生懸命働いてきました。その癖が今でもついているので、生涯勉強、仕事と思い、自立、自己責任の考えの下に生きているので、将来に不安は特に感じていません。
 
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2009年1月28日 (水)

boblog「マーキュリー通信」no.1053【その時人生が動いた-24「霊の存在を知る】

カナダ駐在の時に、妻が原因不明の病気で具合が悪くなりました。妻の病気を治す為に、医者のはしご、そして様々な民間治療を受けました。

 そんな中、三井物産OBの奥様から手かざしで病気が治るという新興宗教を紹介されました。私自身、新興宗教に関しては、病気治しや精神的に弱い人が行くところというふうに思っていたので、余り良いイメージは持っていませんでした。

 しかし、妻の病気を治す為に、その新興宗教に入ってみました。
 さて、その新興宗教では、信者同士がお互いに手を伸ばして、お互いに手かざしをやっています。すると、今までおとなしかった信者達が突然暴れ始めました。

 ある若い男性の信者は、床をのたうち回りました。又、別の主婦の信者は、それまでおとなしかったのが、突然、「おまえを呪ってやる!殺してやる!」と絶叫し始めました。
 この宗教では、この現象を清浄化と呼び、ありがたがっていました。

 実は、この清浄化現象は、後々悪霊の仕業であることが分かりました。それをこの宗教では御利益があるとありがたがっていたわけです。お互いに信者同士悪霊のとばしっこをしてありがたがっていたわけです。

 この新興宗教には1年ほどいましたが、悪霊であることが分かったので、退会を申し出たところ、そこの道場主から「あなたは地獄に堕ちる」と脅かされました。
 信者が辞めようとすると、「地獄に堕ちる」と脅かすのが、邪教の典型的な例ですが、この新興宗教もそうでした。

 しかし、この新興宗教に入ったお陰で、私自身霊の存在を知ることができました。そのことがその後私の人生を変えるとは、その時まだ気がついていませんでした。

 尚、妻の病気は、後に自律神経失調症と分かりました。

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2009年1月17日 (土)

boblog「マーキュリー通信」no.1047【その時人生が動いた-23「三菱銀行人事部長のひと言」】

 100年に一度の経済危機とか騒がれ、学生の就職活動も大変なことと思います。
 しかし、私の経験では、苦労して勝ち取った就職の方が喜びもひとしおであり、学生の実力アップの為に、若い時から苦労した方が社会に出てからの力の源泉となります。

 さて、私の時代の就職活動は、丁度高度成長の時代の時でした。そのお陰で、我々団塊の世代の大量卒業者の受け皿となってくれました。

 私は、高校2年生の時に「世界を股にかけるビジネスマンになりたい」と思い、その夢を実現する為に、第1希望は総合商社でした。その中でも「人の三井」と言われる三井物産が第1希望でした。

 しかし、最初から余り決め打ちはいけないと思い、銀行も就職活動で回ることにしました。三和銀行、東洋信託銀行を訪れた時には、一橋大学の先輩が出てきて、昼食をご馳走していただき、その場で就職が内定しました。

 三菱銀行を訪問した時、人事部長から、「君のようなアイデア豊富でユニークな人間は、銀行のような固いところより、寧ろ商社やメーカーの企画部門の方が向いている」とアドバイスされました。

 この一言に私ははっと我に返り、当初の希望通り商社業界一本に絞りました。そして、第1希望の三井物産を受けました。三井物産の就職は一橋大学でも倍率4倍の難関でした。
 役員面接の時に、僅か3分で終わってしまったので、私は人事担当の杉生副社長以下居並ぶ役員の前で、帰り際に「ひと言言わせてください。」と言って、三井物産希望の理由をとうとうと述べました。中には苦笑いをしている役員もいましたが、言いたいことを言って受からないなら、それで気持ちもすっきりすると居直っていました。

 もし、あの時、三菱銀行の人事部長のひと言が無かったら、私は三和銀行への就職を決めていたかも知れません。そして、私の人生も又大きく変わったのかも知れません。

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編集後記
 横綱朝青龍が3場所連続休場明けの今場所進退を賭けて土俵に上がっています。
毎日危ない相撲を取りながらも、今日まで無傷の7連勝です。
 しかし、素人の私が見ても、体に締まりが無く、下半身も不安定です。
 これは長年稽古を軽視してきたツケが来ているようです。
 従って、後半は崩れ、優勝はできないと思っています。

 さて、学生諸君へのアドバイスです。いくら優秀な学生でも、就職後も一生涯
勉強と思って社会人人生にチャレンジしないと、定年になった時に、その実力差
は驚くほどついています。
 特にIT時代、その格差は拡大する一方です。そして、年収でも10倍、100倍の
開きが出てきます。
 政治家、マスコミ、評論家の「格差社会是正」の標語に踊らされず、自ら力を
つけていくことが王道と心得てくださいね。
 
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2008年9月 9日 (火)

「マーキュリー通信」no.989【その時人生が動いた-22「リースマンション最大手 マルコーが倒産」】

バブルが崩壊し、土地、株式が暴落し始めて来た時のことでした。一橋大学旧剣道部の友人と飲み会をやっていた時に、当時大手都銀に勤務する友人からリースマンション最大手 マルコーの経営危機の情報を入手しました。  その時、私はマルコーのリースマンションを2棟所有していました。友人からその情報を得た翌日に2棟を売りに出しました。売りに出したら、幸いにも直ぐに売れました。そして、売却代金の入金してから1週間後、1991/8/29 にマルコー倒産のニュースが入ってきました。同時に、マルコーのリースマンションの売買は凍結されました。 売却益は1000万円程出ました。同時に私は持っていた株式を全部を売却しました。こちらの売却損は1000万円でした。リースマンションの売却益と差引チャラでした。 結局株式投資は、バブル全盛期に1000万円の利益を上げ、バブル崩壊後1000万円の損をしたので、株式投資ではプラスマイナスゼロという実績でした。  リースマンションの価格も、株価もその後ご存知の通りどんどん下げ続けました。もし、あの時リースマンションと株式を全て処分していなかったら、1億円程度の損を出していたことになります。 当時、大手企業の課長職以上には銀行から2億円程度の融資を無担保で貸してくれた時代でした。この銀行融資に乗せられて、株式や不動産に手を出し、自己破産した人も多数います。  私の場合は、友人の情報のお陰で大損を免れ、その友人には本当に感謝しています。 私はそれ以来、株式投資から手を引きました。  現在は、ベンチャー企業に対する投資を(有)マーキュリー物産として行っています。こちらの方は、やはりベンチャー企業だけあって、倒産した企業も3社あり、3社で300万円の損となりました。やはりベンチャー企業の成功確率は低いです。但し、幸い1社から2000万円程のキャピタルゲインを得たので、他社の損を十分吸収しています。現在は、ベンチャー企業の出資も控えています。  何もやらなければ、損も得もしなかったわけですが、株式投資やリースマンションの怖さも同時に実際に経験をすることにより、貴重な経験と教訓を得ることができました。 ────────────────────────────────  【 編 集 後 記 】 最近は再び土地のミニバブルが弾け、土地は再び下落傾向にあるようです。不動産に対する神話は崩れたようですが、マイホームに対する信仰は未だ根強いです。 不動産が更に下落する傾向の中で、35年もの超長期ローンを組むことは、かなりリスクが高いということを認識し、充分なマイホーム購入資金を集め、余裕をもった資金計画をすることが肝要と考えます。 この基本を外すと、後で自分の首を絞めることになります。借金に追われる人生となってしまいます。 ----------------------------------------------------------------

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2008年4月 1日 (火)

【boblog「マーキュリー通信」no.910その時人生が動いた-20「三井物産入社」】

私が三井物産㈱に入社したのは今から丁度36年前の1972年4月1日でした。あれから丸36年、干支で言うと3周りしたことになります。「光陰矢のごとし」、本当にあっという間の感じがします。

 当時300名入社した同期生も大半が関係会社に出向、又は転籍しました。同期の熾烈な出世のサバイバルレースも終わり、同期の出世頭は4名で全員常務の地位まで出世しています。全員旧知の仲なので、この中から誰か社Kif_2140 長まで出世してくれたら、同期生としては嬉しく、陰ながら応援しています。そんな意味で、新入社員の頃は、三井物産㈱の役員はまさに雲の上の存在でしたが、今は身近に感じます。

 さて、三井物産㈱の場合、内定者の段階で配属希望の記入欄があります。私は、営業希望と記入し、経理部門は行きたくない旨記入しておきました。

 ところが私の意に反して、配属先が新設の開発本部の管理会計部開発会計課となりました。正直言ってがっかりしました。
 
 三井物産㈱の場合、新入社員の7割程度は、営業に転出する前に、財務経理、運輸等本部関係を経験させることになっているので、私もそのルールに則っての配属でした。
 そして、3年間開発会計課で営業会計の仕事をした後、国内の鉄鋼営業(鉄鋼建材部)に異動となりました。

 私は三井物産㈱に25年間勤務して、10の職場を経験させていただきましたが、最初の開発会計課以外は殆ど私の希望が通りました。

 現在、経営コンサルタント業務も行っていますが、この時の会計業務の経験のお陰で、会社の決算書類を見れば、どこが問題なのかを把握できます。その意味では三井物産㈱に大変感謝しています。

 そして、同期の中には、自分の思い通りの人事とならなかった者も多数いる中で、私自身は非常に恵まれていたと思います。

 36年前、右も左も分からないただ元気なだけの若者が、三井物産㈱で鍛えられたお陰で仕事能力も人間的にも大きく成長できたことを心より感謝する次第です。

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2007年12月31日 (月)

「マーキュリー通信」no.822【その時人生が動いた-19「カナダ駐在」】

071231mt_canada0   1980年は、私が三井物産㈱に入社して一番大きな変化のあった年でした。6月末に石炭部北米研修員として半年の予定でカナダ、米国の炭坑に入山し、現場研修することになっていました。

 しかし、当時は第2次石油ショックの頃で、石炭に再びスポットライトが当たりました。三井物産㈱では新規炭坑との長期契約が次々と締結され、カナダ炭も2つの長期契約(Gregg River炭とLine Creek炭)が日本の鉄鋼会社との間で調印される運びとなり、現地はてんてこ舞い、猫の手も借りたい状況でした。
 その時、石炭部北米研修員として研修中の私に声がかかり、3ヶ月のカナダ炭坑での現場研修の後、米国炭坑行きは取りやめとなりました。そして、カナダへの転勤準備の為、9月末に一旦日本に帰国し、12月31日にカナダ(アルバータ州カルガリー市)に転勤となりました。
 
  071231_canada1 カナダに転勤してからの2年間はミニバブル状態で、10%以上の物価上昇、特に家賃は毎月上昇するという状況でした。家賃の賃貸契約は1ヶ月毎の更新で、家主からの値上げ通告でいつでも退去を余儀なくされるという契約内容でした。
 当時、原油価格が1バレル20ドルを超え、30ドル台になるのも時間の問題と言われていました。原油価格の急上昇で、代替エネルギーとしての石炭が注目され ました。石炭への需要は鉄鋼メーカーだけでなく、電力会社との一般炭の契約が続々と締結されるようになりました。

 その後、原油価格は30ドル台には上昇せず、日本の鉄鋼会社は粗鋼生産量1億トンを割る長期不況となり、原油価格も石炭価格も反落し始め、長期低迷状態が続きました。

 カナダに071231canada3は3年半駐在しましたが、多くの経験をしました。私は三井物産㈱で10の異なった職場を経験しましたが、通常異動する事に丁度階段を一段ずつ上がっていく感じで、仕事能力もアップしていきました。しかし、カナダの駐在経験は、エレベーターで一気に上がっていく感じで能力がアップしていきました。
 三井物産㈱石炭部代表としてカナダ炭シッパーのトップと毎日のように英語でやりとりすることで、国際ビジネスマンとしての第一歩を築くことができました。異文化に触れ、国際感覚も磨くことができました。この時、英語力も飛躍的にアップしました。

 現在、原油価格が100ドル台寸前ですが、原油価格の高騰は代替エネルギーの開発を促進します。今度は、地球温暖化問題が大きくある為、代替エネルギーは、風力、水力、水素等のクリーンエネルギーにシフトしていくことでしょう。従って、「原油価格の高騰は、地球温暖化防止に一役買うことになった」と後生の歴史家が評価するかもしれません。 
 このように私自身仕事能力と英語力だけでなく、物事をマクロと長期的に見る習慣がつくようになりました。
 カナダでミニバブルを経験したが私は、日本に帰国して数年後に日本でバブル経済が起きたのを観て、周りの人に「現在の不動産価格の上昇は異常で、いずれ下がる」と言いつのりました。しかし、残念ながら相手にされませんでした。

 北米での3年半の駐在経験は、先見力も身につくようになりました。
 カルガリー市の電話局を訪れた時に、日本が通信、電話に関して余りにも遅れているのでびっくりしました。当時(1980年)日本では電話局に申し込んで電話が開通するまでに1ヶ月程度かかりました。それが、翌日から使えるというのにびっくりしました。電話機も、日本では電電公社からの借り物でしたが、カルガリー市では1台目は電話局からのレンタル。2台目からは店で好きなデザインの電話機を購入することができました。アンティークな形状の物からスヌーピーやディズニーのキャラクターフォンまで品揃えは豊富でした。又、電話代も日本と比べ数分の1と余りにもの安さにびっくりしました。

 071231_canada2その後電電公社が民営化され、三井物産㈱でも新たに情報産業開発部を1984年に創設することとなりました。この時の体験で、今後日本でも情報通信ビジネスは大きく伸びると直感し、鉄鋼部門から情報産業開発部への異動をカナダ三井物産㈱社長に直訴する事になったわけです。情報産業開発部への異動後、テレマーケティングの新会社㈱もしもしホットラインを私が現場責任者として創ることになったわけですが、カナダでのテレマーケティングの体験が活きていたわけで、私にとっては何やら歴史的必然性、因縁めいたものを感じます。
 いずれにせよ27年前の本日は、私にとり人生の大きな転換となった日でした。

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